仏検に行ったり、呉の演奏会に出かけたり、漢詩の会に出たり、
夜は夜で、毎晩のように娘と「夜のお散歩=本屋のハシゴ」をして、
・・・と、このところ暑さに負けじと出歩いていたら、
どうも、とうとう夏バテが来た気分だ。
別に今のところ寝込むような事態にまではなっていないのだが、
昨夜から気配のあった定番の扁桃炎が、今日はハッキリして来て、
プラス、お腹もごろごろと大腸炎っぽく動いている。
さらに今年は口唇炎が起きたらしく、ここ数日、
唇とそのまわりに、ごく軽くだがヒリヒリと違和感がある。
とりあえず手持ちの抗菌剤と整腸剤を飲んで、
唇にはリップクリームを塗って、今夜はゴロ寝で読書でもしよう。
読むのは、ドストエフスキーの『白痴』(木村浩訳)下巻(爆)。
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私は、ドストエフスキーをちゃんと読んだのは、
昨年の『カラマーゾフの兄弟』が最初で、
今回の『白痴』は自分にとってやっと二作目なのだが、
この人の描く、美しい女性というのはパターンが限られるのか?
ということを、『白痴』を読んでいてふと思った。
設定はともかく、人物像の点で『白痴』のナスターシャもアグラーヤも、
『カラマーゾフ』のグルーシェニカも、皆、結構似ているような気がする。
男性のほうは、カラマーゾフの三兄弟にしても、ムイシュキン公爵にしても
それぞれ別個の魅力があり、全く別の人物として私は心惹かれるのだが、
女性像には、そこまでの描き分けが感じられない。・・・すみません(汗)。
ドストエフスキーの理想像が、結局、グルーシェニカ的な女性、
ということだったのだろうか。
それにしても思い出すのが、80年代の初め、登場時のポゴレリチを
『ムイシュキン公爵のよう』と書いた海外の雑誌があったことだ。
実際に『白痴』を読んでいると、演奏家としてポゴレリチの存在感は、
音楽界やその「権威」と呼ばれるような人たちにとっては、
ムイシュキン公爵がいきなり登場したかのようなものだったかもしれない、
と想像できるような気がする。