田村響@呉市文化ホール | 転妻よしこの道楽日記

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広島交響楽団第20回呉定期演奏会ソリストが田村響だったので、
炎天の午後、呉市文化ホールまで行った。指揮は山下一史。

シューマン:歌劇「ゲノフェーファ」序曲 作品81
モーツァルト:ピアノ協奏曲第21番 ハ長調 K.467
ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68

モーツァルトの21番といえば、私の愛聴盤はなんと言っても、
91年にフー・ツォンが弾き振りで録音したCD(Meridian CDE84489)で、
ちなみにこのときのオーケストラは、今年ポゴレリチがLFJ東京で共演した、
ポーランドのシンフォニア・ヴァルソヴィアなのだが、
実は、私はこれを先日来、一日に何度も聞き直して、
勝手に、田村響をフー・ツォンに挑戦させていた(爆)。
しかし、きょう実際の演奏会を聴いてみて、
どちらのソリストが魅力的か、などという比較以前に、
モーツァルトというのは、なんと奥の深い神秘的な音楽なのだろう、
ということを、今更だが何よりも強く感じた。

フー・ツォンの、洗練された透明感あふれる演奏は本当に素晴らしいのだが、
一方で、若い田村響の生命力が、一音一音に凝縮されたような21番にも、
また違った魅力があり、聴き手としてはかなりの手応えを感じた。
それは多分、モーツァルトの作品には多面的な力が内在していて、
弾き手を選んで様々な応え方をするということなのではないか、
と聞きながら思った。
演奏家に才能のきらめきがあったならば、どの年齢・どの段階で弾いても、
作品のほうが、その才能に応じた、最も適した方法で応えて来る、
というモーツァルトの素晴らしさと恐ろしさを同時に感じたのだ。

田村響は、若く、力がみなぎり、そのうえに音楽に対して厳格だった。
非常に高密度の音が、素晴らしく切れ味良く繰り出されて、
しかも和音の縦の線が、比類のない正確さで揃っていて、
田村響のアプローチは私にとって大変爽快感のあるものだった。
私は現在進行形の田村響が、間違いなく気に入っているのだけれど、
それと同時に、彼が将来どのように変化して行くか、
この先の演奏を聴ける日々も、既に待ち遠しいような気がしている。
こういう演奏家こそ、できるだけ長く聴き続けたいものだと、
きょうもつくづく思った。