朝から漢詩の会に行った。
きょうは魏呉蜀の三国時代について改めて習い、
高校のときやったのに全然覚えていなかったと反省した。
杜甫の敬愛する諸葛孔明が、蜀の名相であり、
彼の生きた三世紀頃の日本と言えば、
『魏志倭人伝』に記録されている卑弥呼の時代だ、
……という流れで、「天下三分の計」などの話になった。
一方、杜甫本人が活躍したのは8世紀頃だから、中国は盛唐、
日本は平城京の時代で、古事記や日本書紀が成立したあたりだ、
ということを、改めて確認した。
今更こんなことを言うと殴られそうだが、
私はこの漢詩の会に通うようになるまでは、李白や杜甫を、
平安時代くらいのヒトだと勝手に誤解していた(爆)。
源氏物語が世界最古の小説のひとつで、
あのような長編の散文作品が11世紀に成立していたのは凄い、
と、私が中学のとき歴史の先生が仰っていたが、
それを言うなら、孔子なんて弥生か縄文あたりの思想家だろう。
やはり中国の古典は底無しに奥が深いのだ。
『身体髪膚これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは孝の始めなり』
と紀元前五世紀にもう言われていて、それが記録されていたのに、
21世紀の今、やはりピアスや茶髪などが日常的に存在している。
人間は昔から、こうして戒めなければならないほどに、
すぐフラフラと自分の身体を毀傷しては、悦に入っていたということか。
ちなみに孔子によると、「孝の始め」は「体を傷つけないこと」だが、
「孝の終わり」のほうは「立身出世」であるということになっている。
それは「他人より有名なエラい人になってお金を稼ぐこと」ではない。
孔子の説く「立身出世」とは、まず「身を立て道を行う」ことであり、
その結果、天下に名を轟かせる有徳の人物になれる、という順序だ。
「身を立て道を行う」ことをしなかった、つまり道徳的に駄目な人間は、
そもそも、出世のスタートラインに立つことさえできないわけで、
上昇志向の意味も現在とは段違いだったのだ。
こうしてみると、人生の規範となり得ることはすべて、
数千年昔には、既に言い尽くされていた印象さえある。
『論語』や『孝経』などは今読んでも、大昔の世迷い言ではなく、
むしろ我々の日常生活において、普通に通用する話ばかりで、
……そうすると人間というのは、つくづく、懲りない生き物だ、
ということではないかな、と思ったりした。