今夜は、「東アジアの現代音楽祭2009~作曲家の現在~」
のコンサートⅡのほうを聴きに行った。
・・・と言っても、私はもともと現代音楽の素養が全くなく、
特に20世紀音楽からあとのものは、正直に言って、
「音や拍や速度がそれで良いのかどうか」すら、聴いていてわからない。
楽譜がどうなっているかも、全然想像がつかないことすら、よくある。
ただ、あの手法でしか表現できない世界があることは、わかる。
それが私にとって、なんらかの魅力を持ったものと感じられるか、
単なる不協和音や不快な音連続にしか聞こえないかは、
作品にもよるし、演奏者にもよるのだろうと思っている。
今夜の演奏会は、すべて聴き終わった今、
それぞれ、タイトルを見ると、音の印象が蘇ってくるので、
私程度の次元の聴き手にでも、何かを強力に伝えるほどの、
感銘度の高い作品ばかりが取り上げられていたということだろう。
また、一曲ずつ、演奏の後に毎回、作曲者または演奏者による、
曲や解釈についての短い説明が、インタビュー形式で行われたので
そのことも、私の理解をかなり助けてくれたと思う。
それにしても、さきほども書いたが、
『記譜の方法は、一体どのようなものなのか』ということは、
今回も、聴きながらたびたび不思議に思った。
例えば最後の、湯浅譲二先生の、
『チェロとピアノのための内触覚的宇宙Ⅳ』の中で、
ピアノが、普通に鍵盤を弾くだけでなく、
弦に直接触れるか弦を押さえるかする箇所が幾度もあったが、
楽譜はどういう書き方になっているのだろう。
作曲家が存命で現役の間は、楽譜の意図するところについて、
演奏者に立ち会い、直接の指導や説明をすることが可能だが、
もし、それらを積極的に記録しておく工夫をしなかったら、
楽譜と演奏方法とが、将来的にはどこかで乖離し始める可能性が
出て来るのではないだろうか、などと、聴きながら思った。
そのことを、帰り道に仮装ぴあにすと様に喋っていたら、
「そう考えると、今私たちが楽譜通りにと思って古典を弾いても、
作曲者の意図したものと同じかどうか、わかりませんね」
と言われた。なるほどその通りだ。
バッハやベートーヴェンあたりなど、もう、楽器も今は全然違うし、
私の弾くインヴェンションやソナタなんて、
「わたしの書いたものが、一体どこでそうなった!」
と作曲家が聴いたら怒り出すようなモノではあるまいか。
「バッハが『トリルは鍵盤じゃなく弦を直接弾く!』と言ったりして」
と仮装様が仰るのでウケた。
CDやDVDに記録することの出来なかった時代の音楽を、
残された楽譜と、伝えられている解釈を頼りに弾くなんて、
考えてみたら、雲を掴むような話かもしれないなあと、
夜道に仲秋の名月を見上げながら、思ったりした。