
午前中、いつものピアノの稽古の時間に、先生と待ち合わせ、
某邸宅に出向き、グランドピアノとチェンバロとを弾かせて頂いた。
古典やバロックの曲をやっているときに、
チェンバロにも是非触れてみたら良いという、先生のご判断の御陰で、
私は生まれて初めて、チェンバロの実物に触れることが出来た。
バッハの「12の小プレリュード」の3番をピアノで弾いたあと、
チェンバロでも弾いてみたのだが、響きが違ってとても面白かった。
チェンバロはタッチを変えて音色を作ることができないし、
力の加減で強弱を表現することもできないし、ペダルの類もない。
チェンバロの鍵盤はとても軽く、「打鍵する」楽器ではない。
柔らかく押さえるだけで、弾いた音がしばらく鳴り続けるので、
ピアノのダンパーペダルを軽く踏んだまま弾いている状態に似ているが、
一音一音の持続時間はもう少し短めだ。
基本としては、フォルテが出来ないのだから、
際だたせたい音は、ほかの音と離して弾くしかない。
つまり、前の音が鳴った後、本来の拍と思うところよりも、
わざと、やや遅れたタイミングで、強調したい音を弾く、
そうすると、直前の音の響きが少なくなったところで
その音だけがはっきりと、聴き手に対して効果的に響く、のだ。
・・・と書いているが、実際に自分が弾きながら聞く音と、
人の演奏を楽器からやや離れた場所で聞くときの音では、
響き方の違いが大きいので、最適な響かせ方を習得するのは大変だ。
こういう楽器に触ってみると、モーツァルトのソナタだって恐らく、
今のグランドピアノとは違い、チェンバロかそれに近いものを使って
作曲され演奏されたものだったのだろう、という感じがして来る。
楽譜に書いてあるスラーやレガートの表示は、曲のフレーズや
指を運ぶときの「気持ち」を表現したものに過ぎず、
実際の音は、もっとギシギシと絃が鳴り、一音ずつ刻まれるような、
コンパクトで硬い感じのものが、本来なのではないかと思うのだ。
・・・・・・いや、それは別に、いつまで弾いても、
私の、モーツァルトのソナタKV545がドタバタしていることへの、
言い訳では、ないのですが・・・・・・・
その、モーツァルトのKV545の第一楽章をグランドピアノで弾いて、
先生から、「なんでか、全体がベートーヴェン」だと言われた(爆)。
私はこの一言で、自分のモーツァルトがさっぱり垢抜けない訳がわかった。
私が生理的にキモち良いと思う弾き方を勝手にやると、どうしても、
高低の両端の音にアクセントをつけて音域の広がりを強調したり、
クレッシェンドして行ってフォルテでバン!と断ち切ったり、
フレーズのアタマにスフォルツァンドを無意味につけてしまったり、
という、どヘタな、ベートーヴェンもどきになってしまうのだった。
私の、ど素人なモーツァルトを、少しでも「らしく」するためには、
まず、自分の最強音・最弱音までは出さず、上下点カットの気分で弾く。
フォルテでも軽く、特定の一音を強烈に打鍵するような弾き方をしない。
そして、羽二重餅が重なるような(!)アルペジオを心がける
(=最高音・最低音を尖らせず、全体まろやかに、中音域をよく聴く)。
ペダルを、瞬間的にグイと目一杯踏まないように、もっと柔らかく。
理想はビブラートペダル、でも出来ないから指を鍛えて頑張る(爆)。
弾きながら、モーツァルトは、きっと生きていたときから、
魂だけ亜空間で踊っているような、イっちゃったヒトだったんだと思った。
彼の音楽は、現世のマトモさ加減とは違うものを基準にしている気がする。
KV545の出だしなど、今の私のイメージは、
「三途の川の手前の、お花畑」、よく臨死体験に出て来るヤツだ。
限りなく柔らかく明るいけれど、生気のみなぎる世界ではない。
遙か彼方には、昔うちにいた猫のチーコちゃんがいて、
その周囲で蝶がひらひら舞い、猫の視線もくるくる動いている。
やがてチーコちゃんはこっちを見、前足をあげて、私に挨拶する(爆爆)。