時間が空いたので、行けることになって、
外山啓介ピアノリサイタル@フェニックスホールに出かけた。
前半がサティ(ジムノペディ1番)、ラヴェル(パヴァーヌ)、
フォーレ(ノクターン)、ドビュッシー(月の光、亜麻色の髪の乙女、
映像第二集より三曲(「葉ずえを渡る鐘の音」
「そして月は荒れた寺院に落ちる」「金色の魚」)ということで、
ドビュッシーの最後の三つ以外は、ポピュラーなフランス音楽だった。
私は外山氏について、全くなんの予備知識も先入観も無かったのだが、
ほっそりとした背の高い、今風の男の子という感じで、
しかも選曲があまりにも優男風(殴)に思えて、
前半は正直なところ、私はあまり波長が合わないかも、と思っていた。
後半のショパンも、お馴染みの曲がたくさん取り上げられていて、
ノクターンの2番や革命のエチュード、雨だれのプレリュード等々と、
小品集というよりほとんど名曲アルバムで、
こういう試みの意義を認めないわけではないが、
私の感性では特別な何かを感じ取ることは出来ず、退屈だった。
想像に過ぎないが、地方公演だしデビューしたての若い演奏家だしで、
「親しみやすい選曲で」
と主催者または事務所から求められていたのでは、という気がした。
しかし彼なりの自己主張がないこともなくて、
ノクターンを弾くにも作品9の1番2番と、二曲並べていたし、
「雨だれ」に関しても、前奏曲集の13番から15番まで、
続けて演奏していて、一連の流れを作っていた。
尤も、私の趣味としては、前奏曲の13番からあとは、
前の曲が終わったあと次の曲が始まるところの間合いというか、
繋ぎ方もかなり聴きどころだと思うので、
これならもうひとつ16番まで弾いて欲しかったと、内心では、思った。
全プログラムを通しての最大眼目は最後の二曲で、
ショパンの「舟歌」と「バラード4番」。
「舟歌」だけで終わってもいいくらいの内容のある曲なのに、
それに加えて、バラード中で恐らく最も難度が高いであろう、
4番を弾いてリサイタルを締めくくるというのは、
怖いモノ知らずの若い人なんだなあとプログラムを見たとき思った。
が、聴いて見たらこの二曲が恐ろしいほど見事な出来映えで、
前半の大人しさやここまでの名曲アルバムぶりは一体なんだったんだ、
と私は心底、驚いてしまった。
アンコールは、ショパンで来るかと思ったので、
『小犬のワルツ弾いたら殺ス。スケ4弾いたらネ申』
と内心でアホなことを考えて待っていたら、これが全然違って、
フランクのプレリュードとラフマニノフの「音の絵」だった。
舟歌の後半からバラード、アンコール二曲に至るまでのところで、
ようやく外山啓介の本領を聴いたような気がした。
これだけ明晰な自己主張があって、強靱なテクニックがあって、
学究的な環境の只中にいる若い演奏家には、
もっと思い通りに弾きたいものを弾いて貰いたいと思った。
――もし、外山氏御本人が、本当に心から望んで、
パヴァーヌや月の光、革命、雨だれというラインナップを、
一切の拘束などなく自身で選んだのだとしたら、
すべては私の誤解であり、大変申し訳ないと思うけれども。
リサイタルの構成にあたっては、外山氏なりの流れがきちんとあって、
予期しない箇所で拍手が起こっても(「革命」のあとなど)、
目礼を返したのみで、そこで立ち上がることはせず、
自分で決めた区切りまで持っていったことはとても良かった。
また、客席への心を込めた丁寧なお辞儀や、
アンコールは二曲弾いて、そこで終わる意思表示を明確にしたことなど、
実に理知的で礼儀正しさのあるステージマナーだったと思う。
個人的には、次のツアーがまた行われるときには、
ラフマニノフのソナタ2番、あるいはバルトークのソナタなど、
重量感があって規模の大きな、現代寄りの曲が聴けたらいいなと思った。
優男の仮面の下に、もっとずっと面白いものがありそうな感じだった。