お盆って何 | 転妻よしこの道楽日記

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お盆に関して、友人のひとりが、とても面白いことを言っていた。
まず、多くの地域では、お盆に入るときに、
ご先祖様の霊が家に帰って来られるのに迷われないようにと
「迎え火」を焚いたり、盆提灯・盆灯籠などでお迎えする、
という作法があると思うのだが、彼女いわく、
『もう何年も帰ってきてはるんやから道には迷わないと思うのですが』。

まったくだ。
初盆のじーちゃんなら、物珍しさから、途中で「おっ?」と思ったり、
懐かしい○○オートで喋ったり、○○飯店で道草食ったりして、
挙げ句に道に迷うこともあったかもしれないが、
それ以外のご先祖様たちだったら、年中行事で通いなれた道、
今更、迷ってよその家に行ったりもするまいと私にも思われる。
しかも、どこの家でも迎え火を焚いていれば、目印にも何もならず、
結局、霊本人が道をわかっていなければ、同じことではないのだろうか。

また、お盆の時期になると、霊は皆、各自の家で家族に迎えられて過ごし、
お盆が終わると、16日くらいに、こんどは「送り火」によって送り出され
また帰っていく、というのがだいたいの人々の了解事項だと思うのだが、
地域によっては、お盆の終わりの8月16日には
『地獄の釜のふたが開く』と言われている。私もこれは聞いたことがある。
それについても、くだんの友人に言わせるならば、
『先祖は地獄にいるのかな?よく分かりません』。

まったく、まったく。
こっちの思いとしては、極楽浄土からキュウリの駿馬に乗って
颯爽と帰ってきて頂き、お盆を懐かしい我が家でお過ごしになったあと、
盆明けにはナスの牛に揺られて、明るい浄土に戻って行かれる、
というのを想像したいところなのだが、開いているのは地獄の釜の蓋。
それは一体、誰を迎えるために開いているのかしら。
そこを通って、極楽に行くべきものは行く、ということ?
それとも話題にならないだけで、極楽の門も開いているの?

更に、お盆というとお墓参りが定番だと思うのだが、
これについても、友人の言によれば、
『私の感覚では、今、お墓さんに参っても仏壇に帰ってはるから
お墓は空っぽのはずとおもうのですが・・・』。
言われてみればその通りだ。霊が里帰り中なら、墓は空き家だ。
墓という留守宅に出向いた者は、
証拠の品にお供えだけして来るというワケか。

という話をしていたら、主人が、モノ凄いことを言った。
「だいたい、浄土真宗の考えだと、とっくに輪廻で転生しているから、
帰ってくる霊なんておらん、というか少なくとも本人じゃないのよ」

ひええええええ

じゃあ、私は、じーちゃんでないモノのために、
仏壇を飾って煙草まで供えて、喜々として待っていた、ということ??

「まあ強いて言えば、盆は現世の我々のためにあるいうことやね。
昔の人に思いをはせて、お経やお説教を聞く、という機会に過ぎん」

主人によれば、浄土真宗は親鸞様が悪人正機説を唱えていらっしゃるので
例えばお寺さんにお布施をはずんだから故人が浮かばれる、とか、
我々が真面目にお説教を聞いたから功徳を積んだと評価される、
などということも一切ないのだそうだ。
というか、そのような取引めいたことを考えること自体が害悪で、
自分がいかに罪深い、力を持たない者であるかを知って、
仏さんにすべておすがりする、という純粋な気持ちを持てるかどうか、
というところが本当に難しいのだ、と。

だが、私は、やっぱり仏壇には舅がいたような気がする。
というか、そういう気分になって、舅のことを皆で思い出して、
お寺さんにもお経をあげて頂いて、私たちもそれを聴き、
一緒に唱えて、その時間を共有する、というのは、
悪いことであろうはずがない、と思う。
それに、考えてみたら、もし仮に、
舅でないものが仏壇に来ていたとしても、
あまり問題ではなかったかもしれない。
だって、本当に輪廻というものがあるのなら、他人も身内も関係ない、
霊の世界では我々はひとつだから、誰であろうと、いや動物だって皆、
我々に繋がるものたちだ、ということではないだろうか
(なんだか『手のひらを太陽に』みたいだけど)。

「そーかー。じゃあ、わんこのコロも、今頃は人間になったかもね?」
と私が言ったら、主人は、
「いや、あいつはよく他の犬をいじめよったから、どうかわからんで」
と案外、冷淡なのだった(^_^;)。