私は、過ぎたことをクヨクヨ後悔するのは好まないのだが、
たったひとつ、娘に関して、かなり未練がましく思っていることが
実は、ある。それは、娘のピアノに関してだ。
私は、娘を音楽大学にやりたいと思ったことは一度もないのだが、
趣味ではあっても、クラシックをきちんと弾けるようになってほしい、
という希望は持っていた。
楽器が何かできるというのは、それだけで楽しいことだし、
私自身が中途半端なピアノで終わってしまっていることへの残念さも、
それなりに、感じていたからだ。
私が思い描いていたのは、自分がして来たように、
メトードローズでもバイエルでもいいから、初歩の教本から入って、
ハノンで指の訓練をしつつ、ツェルニー30番40番50番と進んでいき、
ソナチネからソナタへ、バッハもインベンションとシンフォニア、
もし可能ならば、いずれは平均率、・・・というような順序だった。
娘は2歳でヤマハの幼児クラスに入ったので、時間はあると思っていた。
ところが、結果論なのだが、娘は、
そのようなコースから完全に外れた指導ばかりを受けることになった。
ヤマハの基礎グレードが終わって、個人指導にうつり、
6歳で最初についた先生は、トンプソン現代ピアノ教本を使用され、
次に9歳でついた先生は、バーナムテクニックを使っておられた。
そのこと自体は良いのだが、これらは指の訓練には物足りないと
私には感じられた。しかも、表現などの点ではロクに弾けて無いのに、
「間違えなかった」というレベルで合格にされてしまう。
それじゃ娘のやっていることは、つまり「譜読み」だけではないか!
私は、言い方には留意しつつ、自分の疑問を申し出てみた。だが、
「ハノンのような機械的な練習では、子供がイヤになってしまいます」
「やっぱり楽しいことが、まず、大切ですから」
「今更、バイエルの時代ではありません」
という意味のことを、奇しくも、どちらの先生も仰った。
先生方にそう言われれば、引き下がるしかなかった。
もうひとつ不本意だったのは、発表会のたびに、娘に与えられるのが、
聞いたこともないような現代曲だった、ということだ。
ほかのお子さんもそうだったし、中にはアニメ主題歌を弾く子もいたので、
これまた、時代はもはや、ランゲやフンメルやオースティンではない、
ということなのだろうが、私は内心、憮然とした思いだった。
私の子供の頃は、習い始めて一年くらいの子でも、
その技術で弾けるクラシックを弾いていたものだったのに、と。
勿論、音楽史に沿った勉強順序がすべてではない、
ということは私にもわかる。
むしろ、子供の頃から20世紀音楽に慣れさせておくのは、
現代曲への感性を育てる意味で有益だということも了解しているつもりだ。
だが、それらは古典をも同時に勉強してこその話ではないのだろうか。
少なくとも私には、
娘には、まずは、混じりけのない古典音楽に触れさせたかったのに、
という思いが、根強く残った。
ポピュラー音楽やアニメ主題歌は、テレビでも街中でも流れているが、
クラシックに関しては、意志的に機会を設けて勉強しなければ、
触れないままで大人になってしまう可能性の強い分野だと思うし、
また、ある程度、系統だった指導を受けないことには、
雰囲気だけで流して演奏できる種類の音楽でもないと思うのだ。
・・・などと書くと、良識ある方々からは、
「お子さんのご希望はどうなのですか。
お母さんのエゴで習わせてはいけません」
と言われそうだが、それを言うなら、
別に娘が映画音楽を弾きたがったわけではない。
彼女のは「なんか格好良く弾けたらなー」という程度の希望であって、
何を弾くかについては、なんにもわかっちゃいない白紙だったのだ。
古典にせよ、現代物にせよ、よほど神童的なお子さんでなかったら、
子供のほうから迷いもなく「これ!」と言って選ぶことなど、
まず、少ないのではないか。
子供は、ある程度の材料を目の前に並べられてからでなければ、
自分の希望もないし、選ぶことも難しいのではないかと思う。
もしかしたら、娘には、あまりにも才能が無さ過ぎたために、
「こどものハノン」以前に、バイエルですら、ハナから無理だった、
ということなんだろうか???
親の私にむかって、そうは言いにくいから、先生方は
弾けていても弾けてなくても知らない人にはわからない現代曲とか、
簡単アレンジのポピュラーピアノとかで、お茶を濁していらしたのだろうか。
もしそうだったら、困らせて大変申し訳なかったと思うけれど。
娘は今は、塾通いのためにピアノの稽古には行っていないのだが、
ときどき、自分で楽譜を見て、弾きたい曲を弾いたりはしている。
だから、習ったことは完全に無駄になってはいないと思うし、
ここまで指導して下さった先生方には、私なりに感謝はしている。
だが、娘の選択肢の中に、「クラシック」というものを、
最初の段階でしっかりと入れてやりたかったのに、
それに失敗した、という無念さは、今も、私の中に、ある。