第三の男  その92 | 岩崎公宏のブログ

第三の男  その92

ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト亡きあとプロイセンの参謀総長に就任したのが、彼を主席幕僚として支えていたアウグスト・フォン・グナイゼナウだった。彼は意志強固で気性が激しく参謀というよりは指揮官タイプの軍人だったけど、シャルンホルストを尊敬しており、その職務を忠実に履行することを貫いた。シャルンホルストの聖ペテロと称されることもあった。グナイゼナウ自身は「シャルンホルストさんと比較すると自分は巨人のかたわらの小人である」と語っていた。

シャルンホルストが存命だった1813年6月2日にフランスはプロイセンやロシアと休戦条約を締結していた。前回、書いたように戦闘に勝ったフランス軍が相手を追撃して殲滅する力を喪失していたことが要因だ。全盛期のナポレオンならこういう失敗はなかったと思う。ロシア遠征での大敗によって戦力を大きく低下させていたのだ。むしろあれほどの失敗があったにもかかわらず、短期間でここまで立て直したことはナポレオンならではだとも言える。

休戦は2カ月だけだった。オーストリアが仲介しようとしたけど、春の戦闘に勝利したナポレオンがそれを拒否したからだ。この対応によって皇后の母国であったオーストリアを味方にすることができず、逆に連合国側に追いやることになってしまった。

8月23日のグロスベーレンの戦いから戦争は再開された。連合国軍は戦場における命令が明確さを欠き、その曖昧さが勝敗を左右することを認識していた。戦闘においては臨機応変な対応が重要であることに気がつき中央司令部からの指令は目的の概略を定めるだけにして、その達成のための手段は現地の戦場の指揮官の裁量にまかせる訓令方式を採用した。

ナポレオンは主要な戦場に兵力と火器を投入し、一気に相手を叩いて追撃して殲滅することで勝利を得るという戦法だった。これを研究した連合軍は、ナポレオン軍の主力との決戦は極力回避して整然と退却し、部下の将軍たちと戦うという方式に転換した。

渡部昇一氏は「ドイツ参謀本部」(中公新書)の77ページに「これ以後の対ナポレオン戦争の戦略構想は、主としてグナイゼナウの構想であった」と記している。ところがウィキペディアの「ライプツィヒの戦い」の項目を読むと、これに関して作戦を推奨したのはスウェーデン軍を率いたジャン・バティスト・ベルナドットであり、戦略立案者については、オーストリア軍のヨーゼフ・ラデツキーであるという説、ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト説、アウグスト・フォン・グナイゼナウ説があると併記している。特定の個人というよりプロイセンの参謀本部のメンバーがナポレオンの戦法を研究したうえで考案したのだと私は推測している。

10月中旬のライプツィヒの戦いでナポレオンは致命的な敗北を喫してライン川の南に撤退した。連合国の思惑が交錯するなかで、パリへの進撃を強硬に主張したのがグナイゼナウだった。ナポレオンを捕えて銃殺すべきとまで主張していた。

連合国軍がパリへの進撃を始めたのは1815年1月25日だった。この日からパリが陥落するまでの間に14回の戦闘があった。そのうちナポレオンは自分が指揮を執った11回の戦闘に勝利した。しかしフランス軍はパリを守ることができずに敗退した。カール・フォン・クラウゼヴィッツの「戦争論」にある「目的はパリ、目標はフランス軍」というのは、このときの戦争を形容した言葉だ。

ナポレオンは処刑されることはなかったけど、エルバ島に流されることになった。ウィーン会議が各国の思惑のためにうまく協議が進まない隙をついて脱出したあとのことは、2年間にジョゼフ・フーシェを取り上げたときに書いたのでここでは繰り返さない。


アウグスト・フォン・グナイゼナウ