NHKスペシャル「玉砕 隠された真実」 その14 | 岩崎公宏のブログ

NHKスペシャル「玉砕 隠された真実」 その14

日本軍の占領からおよそ1年が経過した1943年(昭和18年)5月12日に米軍がアッツ島に上陸した。守備隊の4倍以上の11,000名の兵力だった。

取材班は追いつめられた守備隊が最後の突撃をおこなった場所に向かった。1943年(昭和18年)5月29日の深夜に生き残っていた100人余りの最後の日本兵が突撃した谷の映像があった。地面には米軍の激しい銃撃を物語る薬莢が今も大量に残っている。戦後になって米軍が建てた墓標が激戦の痕跡をわずかに留めていた。

守備隊の最後を目撃した元米軍兵士が取材に応じていた。アラン・セロム氏、94歳。彼がアッツ島で撮影した写真を見せていた。ほとんど武器を持たずに叫びながら向かってくる日本軍の最後の突撃はセロム氏にとって全く理解できないものだった。「あれは自殺でした。万歳がどういう意味かわかりませんが、自殺のための突撃でした。日本兵は爆発物を巻き付けて死のうとしていました。私たちを殺しに来ると同時に死にに来たのです」と彼は回想した。

アッツ島守備隊の2,638人は全員玉砕したと大本営によって発表された。戦後間もなく政府がまとめていたアッツ島戦没者名簿がある。その最後のページに生還者に関する記録が掲載されている。実は27人が瀕死の重傷を負うなどして米軍の捕虜となり、戦後になって日本に帰国していた。兵士たちはどのような思いで最後の突撃をおこなったのかを知るために取材班は名簿を頼りに生還者の消息を追った。

取材を始めてから3カ月で一人の生存者に辿り着いた。川崎市に住む加藤重男さん89歳だ。加藤さんはこれまで家族にさえか玉砕ついて多くを語っていなかった。人生の最後に真実を伝えたいと取材に応じていた。

加藤さんはアッツ島の海岸で任務に就いていたときに米軍の上陸に遭遇して、胸と指を撃たれて重傷を負って捕虜となった。「アメリカ軍が上陸したって抵抗も何もできない、ただ撃たれるだけでね、援軍もないし、食べるものもない、弾薬はないし、何もないから総攻撃して玉砕した」と語っていた。

21歳で徴兵された岩手県奥州市の佐々木一郎さん89歳も重い口を開いた一人だった。「カメラの前でこんなことを語るとはさ、夢にも思ってなかったからさ」と言ったあと「アメリカ軍上陸から数日間、守備隊は激しく抵抗した。しかし空襲や艦砲射撃にさらされ仲間の兵士は次々に戦死していった」というナレーションが挿入された。「旗色が悪いのは目に見えてるんだもん、最初から艦砲射撃受けるときから、艦砲射撃を受けないように撃退する艦隊がいたらわかるけどね。本当に希望も何もない戦争さ、負け戦だからね」と語っていた。

追い込まれても日本兵は降伏しなかった。アッツ島で戦死した兵士が持っていた軍隊手帳には生きて虜囚の辱めを受けずの戦陣訓の記載がある。降伏して捕虜になることは、兵士の心得を記した戦陣訓で固く禁じられていた。

岩手県紫波の高橋富松さん89歳はアッツ島の戦闘で肩に重傷を負ったときのことを回想していた。自決するか突撃して戦死するか選べと上官に告げられた。「軍隊の規則だから戦陣訓だけは守らないと、死ねという言葉が戦陣訓にありますから。残されると敵に引っ張っていかれますから、結局死ぬしかないんです」と話していた。

突撃していく兵士の手には手榴弾か剣しかなかった。

佐々木一郎さんは「突撃なんていったって、鉄砲玉のほうが速いんだもん、そりゃどうかしてるさ、本当はな、そうすればまず生きてないな、完全にいかれている」と当時を回想した。



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       アッツ島に上陸する米軍