NHKスペシャル「玉砕 隠された真実」 その9 | 岩崎公宏のブログ

NHKスペシャル「玉砕 隠された真実」 その9

朝日新聞の戦争報道についての記述が長くなってしまった。本題のテレビ番組の方へ話題を戻す。

アッツ島の守備隊が全滅したあと、大本営はラジオ、新聞、雑誌などあらゆるメディアを通じて、玉砕を称えて国民に死の覚悟を求めた。

当時、国民学校(昭和16年4月から国民学校令によって小学校が国民学校になっていた)の5年生だった私の父はアッツ島守備隊が全滅したときに全校生徒が校庭に整列して北を向いて黙祷し、守備隊長だった山崎保代大佐の写真が校内に掲示されたと言っていた。前述の「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」も歌ったそうだ。私がこのことを父から聞いたのは、小学生のときに子供向けに書かれた太平洋戦争の本を読んでアッツ島の戦闘のことを知ったときだった。父にアッツ島の戦闘のことを尋ねたときに教えてくれたのだ。

戦況の悪化とともに一般の国民にも玉砕が広がっていった。番組ではサイパン島のバンザイ岬から飛び降りる女性の映像が流された。アッツ島の守備隊全滅したあと死者の数は急速に増えて二百数十万人の日本人が命を失っていった。

「玉砕のさきがけとなったアッツ島、2,600人の将兵たち、その死はどのように引き起こされて利用されていったのか?これまで明らかにされなかった玉砕の真実に迫ります」というナレーションとともに「玉砕 隠された真実」という番組のタイトルが表示された。

アッツ島はアンカレジから1,400キロ離れた場所にあり海岸警備隊が管轄する立ち入り禁止の島だ。取材班はアメリカ政府と交渉してロシアとの国境に近いこの島に特別に入ることを許可された。島の広さは日本の佐渡島と同じくらい、1年中悪天候が続き、風速80メートルの暴風が吹き荒れることもある島は起伏が激しく特別な車で移動しなければならない。

島の北東部にチチャコフ湾がある。日本軍が占領していたときにはこの湾を熱田湾と称していた。日本軍が太平洋戦争のときに占領した地域を漢字の名前に変更することがあった。よく知られた例としてはシンガポールを昭南島と変えたことが挙げられる。他にもグアム島を大宮島と変えたし、アッツ島も熱田島にしていた。

チチャコフ湾は日本軍のアッツ島守備隊の本部が最後に置かれた場所だった。ここには直径3メートルほどの砲撃の跡が今も残っている。当時はここに日本兵の死傷者があふれていた。