「私にも出来たんだからあなたもできる」
こういう励ましの言葉って残酷だと思いませんか?
私はそう思うんですが、私の心が捻くれてるのかな。
とある闘病マンガのラストが「どうかあなたも負けないで」「生きて」「死なないで」「きっと大丈夫だから」のオンパレードで、読んだのを後悔したくらいすごく抵抗があるんです。
例えば不妊治療関連のヤフーニュースがあったとして、おそらくヤフコメには「注射が痛いです」「パートナーが非協力的で辛いです」「金銭的に苦しいです」といったコメントが付きますよね。
それは当事者のリアルな声なので、医療者として素直に「なるほどなぁ」と考えを深めながら見ているんですが、問題はその返信欄。
「自分も治療して今は◯児の母です」とか
「もう諦めようかと思っていたときに奇跡的に妊娠しました」とか
そういう成功例を書き込む人。
あれを見るとすごく苦々しい気持ちになる。
おそらく自慢でもマウントのつもりもなく、ただ事実を述べただけなんだとは思います。
あるいは前述した通り「あなたも大丈夫、きっと出来る」といった励ましの意図があるのかもしれない。
でもその文章が傷つけるかもしれないという発想はないのかな...?と疑問なんですよね。
もし私が当事者なら「何を根拠に『あなたもできる』って思うの?」と言いたくなりますもん。
ちょっと目を離した隙に子供がいなくなって亡くなったニュースで
「我が子は無事だったけど、自分も似たような経験があって肝を冷やした」とか、
無差別殺人事件のニュースで
「この時間にここをよく通るから、自分が被害者でもおかしくなかった」とか、
災害のニュースで
「ニュースで映像を見ましたが、映画かと思いました」とか。
書き込んでいる人は本当に悪意はないのかもしれない。
でも当事者がそのコメントを読んだら、という視点が抜け落ちてる。
目の前に当事者、被害者、ご遺族がいても同じことを言うのかな?と思うわけです。
悪気がない発言って余計に辛いんですよね。
「悪く受け取ってしまう私がダメなんだろうな」と自分を責めてしまいかねないし。
無神経とまでは言わないけど、あまりにも自己の発言の力について無自覚すぎるかなと思う。
無自覚に追い詰めるのってお互いに不幸でしかないもん。
それがきっかけで縁が切れることもあるだろうし。
まあ私が敏感すぎるだけで「私にできたんだからあなたにもできる」が励ましに感じられる人もいるかもしれない。
でも、そうじゃなかったら?
ギリギリ繋がっていた糸を切る最後の一押しになってしまったら?
そう考えると励ますのって本当に難しいし、なんなら自己満足で傲慢なことだとすら思う。
だから私は積極的に慰めよう、励まそうとはしない。
むしろ何気ないものが勝手に慰めになったことがあるので、アクションを起こす側が頑張ってどうこうできる話じゃないと思うんですね。
すごく受動的な感覚というか。
術後、病室で辛かった夜にNHKラジオの朗読が心を落ち着かせてくれたんですが、朗読している人は別に誰かを励ますつもりなんてなかったはず。
ただ自分の発声と表現力を使って仕事をしているだけ。
でも私にとっては痛くて辛くて孤独だった夜の支えになった。
朗読以外にも支えになったものがもうひとつあります。
手術したその日の夜、親戚の少年から能天気なLINEが来てすごく気が紛れたんですよね。
彼は私が手術を受けたなんて知る由もなく、ただ私と共通の趣味の話をしたかっただけ。
普通に生活している少年と、至って普通のやり取り。
私を励まそうなんて一ミリも思ってない。
でも、LINEを返している間は痛みや悲しい気持ちが紛れた。
結局ひとりで立ち直るしかなくて、その過程でたまたまそこにあったものが勝手に支えになっただけ。
励まし、慰めってそういうものだと思うんです。
私がこのブログであーだこーだ書いているのも、別に誰かを積極的に励ましたいわけじゃないです。
そもそも良性の時点でそれこそ「自慢やマウント」と感じる人もいるかもしれないし...。
他の疾患、同じ子宮筋腫持ちの人に上からどうこう言うつもりもない。
開腹手術を受けた先輩として振る舞うつもりもない。
強いて言うなら、ただ隣に座って「本当しんどいよねぇ」「病気って理不尽だよねぇ」ってぼやきたいだけかな。
医療従事者の自分ですら当事者になるまで分からなかったこと、知ってたけど辛かったこと、絶望した日、泣き続けた夜、たくさんありましたもん。
本当、病気って何なんだろう。
理不尽だし苦しし、お金もかかるし時間も取られる。
大なり小なり人の人生を変えてしまう。
今でも自分の向き合い方が合ってたのか分かんないです。
考えても仕方ないけど、私は医療者だからとりあえずは考え続けることにします。
