川崎殺傷事件について | ЯαYの日記

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信なくば立たず

 先日川崎で痛ましい事件が起こりました。
 こういう事件が起こると犯人に猛烈な攻撃コメントが噴出します。
 
 例えば動物園の管理が杜撰で、ライオンが逃げ出して今回のように人を殺傷してもライオンを責めるような人って少ないと思います。動物園の監督責任ですよね。
 人の場合の監督責任は未成年の場合問われる事もありますが、基本的にはありません。
 やはり人の場合は実行犯自身に圧倒的責任があります。
 
 人って人に期待し過ぎなのではないかな、と僕はいつも思います。
 例えば今回事件の実行犯がライオンの場合、ライオン自身への怨恨が発生するかというとするかもしれないけど、それが今回のように人間の場合とは比べものにならない位小さい筈です。
 
 憎悪も愛も同じコインの表と裏の関係で、何れにしても人って凄く人に執着したり依存してるのだなと思います。
 多分その次元から少し距離を置けないと、人生って辛いものになってしまうと思います。
 なぜなら「愛」ですらそれ程美しいものでは無いからです。というか困難な代物ですよね。
 但し無償の愛は別です。別ですがそれは寧ろ一般に知られている意味での愛から距離を置かないと実現出来ない訳で、本来同じ言葉を使えない位違う感情です。
 
 今回川崎で起きたような事件って米国での銃乱射事件のように、世界中で多発しています。
 これは人類に生じているシステムエラーみたいなもので、何年に一回かは必ず発生してしまうものなのです。
 さきに動物園とライオンの関係を書きましたが、今回事件の場合は犯人がライオンで動物園が日本社会全体というように捉えらないでしょうか?
 
 という話を藤田孝典氏という方がネット記事で書いていて、コメント欄の大部分がバッシングでした。
 そういった話を犯人を擁護してると勘違いしたのでしょうが、寧ろその短絡さや非寛容が次の無差別殺人を生み出すとさえ言えるかもしれません。
 なぜなら無差別殺人犯の多くは、自分を排斥した人間社会を憎んでいる場合が多分殆どだからです。
 
 事件が起きてしまっては何れにしろ「時既に遅し」で、犯人が事件を起こさないのが一番良いのです。犯人への怨恨を発するのは自由ですが、殆ど意味が無いと僕は思っています。
 と藤田氏の記事に書き込んだら、僕もバッシングを受けてしまいました。
 その内容は「お前の家族だったらどうする」といったものでしたが、そもそも反論にすらなって無い気がします。個人攻撃的な事も言って来るのですが、完全に想定内過ぎてちょっと残念な気持ちにもなりました。
 
 今回の川崎殺傷事件を自分の肉親に置き換えて捉える事が出来るというのは、被害者の身になって考える事が出来る事であって、優しい人々なのだとは思います。
 ただ加害者側の身になって捉える事も出来る筈です。
 例えば自分が加害者の親だったり兄弟のような立場だったら何が出来るのか、どうしたら肉親の凶行を止められるのかを考える事は出来ます。
 それを少し敷衍した方々がNPO等で引きこもり支援をされているのです。上記の藤田氏もそういった活動をなさっています。
 
 ストーカーが追いかけてる相手を殺してしまう事件がありますが、加害者側にカウンセリングをして防ぐ活動をされてる女性がおられます。その方も自身がストーカー被害に遭われた方で、名前は忘れましたが以前NHKに出演されてました。
 凄いと思ったのは彼女はそれで多くのストーカーを改心させてしまうのです。もしかするとというか恐らく殺人事件に発展してしまうような案件も阻止出来たケースがあると思われます。
 
 同じように川崎殺傷のような事件も防げる可能性があるのです。
 犯人の男性はやはり引きこもりだったのですが、例えば同じ経験がある人々と話し合ったりカウンセリングすれば人間的な心を取り戻せたかもしれません。
 つまり引き籠りを克服して頂くのが、別の引き籠りを救う事にもなり、その中には凶行を阻止出来るような方も生まれ得るという事になります。
 

 今回の事件は老夫婦が何度も区役所に相談しに行っていて、行政側は犯人の引き籠りを把握していました。せめて区役所が引き籠り支援団体等に連絡一本入れてくれれば防げたかもしれない犯行です。

 事件を悲しんだり、犯人を責める前に考えるべき事があると思います。