人の言葉に傷つく | ЯαYの日記

ЯαYの日記

信なくば立たず

他人の言葉に心が傷ついた事とか、まあ誰でも経験はあるでしょう。
ただ案外こういうのってちょっと何か言われた位で気にする自分が嫌だったりするものです。
特に男性は嫌でしょう。
コレ男性じゃないと解らないと思うのだけど、他人にちょっと言われた「程度」で気にしてる自分が「女々しくて」恥しいだとか情けないだとかいう感覚。
「女々しい」って表現は女性には申し訳ないですが。
やっぱり男性には意地を張らねばならぬ局面が多い気がします。


まあそれは別として、、、、、、
コレ自分の場合を考えた時に、他人に何か言われて心が傷ついたのってかなり明確。
それは「他人に自分を否定或いは卑下されるような事を言われた時」という事かな。
多分他の人も殆どがそうだと思います。

これはなぜ傷つくのかと言うと

★相手に対する自分の評価が落ちる
★★否定されて自分を否定的に考える強制力が働く(その意思が無くとも)

の2つがあります。
この2つ以外はどんなに考えても出てこなかった。


★の場合は2通りあります。
1つは明らかに自分に落度があって他人に批判された時と、相手の不当な評価によって非難された時。
後者の場合なら一切気にする必要はありません。理屈だけで言えば気にするのは無駄だけでなく有害でさえある。
しかし実際にはそんな理不尽な場合でも意外に心にダメージを受けている。むしろ意識してブロックしないと普通はダメージを受けます。
つまり心の在り様と理屈が合致しないのが人間にとって「自然」だという事になる。つまり頭で考えている理屈と心が乖離した状態が普通。
それは置いておいて取り敢えず以下のような結論に至ります。

①人間にとって正当か不当かに関わらず、他人から見た自分の評価は非常に重要

という事になるかと思う。


★★の場合にも2通り。
やはり自分に落度があって批判された場合と、落度が無くて非難された場合。
当然後者の場合は気にしなくても良いのだけど、傷つくまでいかなかった場合でも色々難癖つけられるのは非常に不快だと思う。要するに自分が否定される事そのものが嫌なんだな。これは自分と関係無いアカの他人が幾ら叩かれても何とも思わないのを鑑みれば、難癖をつける他人の存在そのものよりも、「自分」が言われてるか否かが重要なポイントになります。
多分自分が悪くても悪くなくても自分を否定的に考えたり、悪く考えたりって人にとってとても不愉快な事なのかと思う。
逆に言えば他人から文句言われてもしょうがない状況でも、心が傷ついてしまってそれで「逆ギレ」して自らの非を認められないという事も起きます。

②人間にとって正当か不当かに関わらず、自分を否定されるのは非常に不愉快

という事が言えましょう。


①についてなのだけど、改めてそんなにも他人の評価が大事なのかとは思う。
しかも人間って大抵は自分勝手かつ不公正な評価を他人にしていて、そういうのを拝聴する度にそんなものに一々付きあってたら神経持たないと思う。
と理屈では解っていても、やはり誤解かつ不当な評価であっても自分の事を否定されれば気にしない人間はいないでしょう。いなかったらこれはこれで社会性が全く無くて他人に大変迷惑な存在かもしれない。
人間社会ってのは特に仕事関係等では必ず上下関係があって、上の人間は上記のように自分より下の人間に対して身勝手な理解や評価を与える事が多々ある。上下関係ってのは身勝手が許される状況でもあるわけだから。当然下の人間は普通その一方的な評価に晒されるわけだからたまったものではありません。


ヒトが他人からの評価が悪いと嫌なのは本能のようなものです。
そういう本能があっても、その評価が正当なものならば受け入れられるのが理性であり逆に言えばそれが本能を抑えられる根拠かつ限界なんですね。
だからこれが不当な評価という事になって、それをも受け入れねばならぬとなると今度は理性の否定であり、それは理性的人間存在の否定に繋がりかねない。
理性の否定を回避する為に本能そのものの否定という事になると、自我だとか人間だとかそのものの否定になります。
突き詰めるとこういう事になる。
このような不当な攻撃に対して抵抗しなく、場合によっては肯定さえせざるを得ないという矛盾に耐えるというのが「ストレス」という事になります。
まともに考えたら突破口が全然無い状態に耐えねばならない状態。
これがストレスに晒されるという事です。
そのままの状態だと気が狂う。
とにかく難儀。


改めて他人の自分に対する評価なんだけど、コレを考え直すことはできないか。
まあ本能のようなものだから、頭でアレコレ考えてどうにかできる性質のものでも無いでしょう。しかし上記のような現状があります。
本能を本能のまま置いておいては、多分厳しい現代社会では生き残れない気がします。
一つ澪が考えているのは、

自分の評価基準を自ら「具体的に」設定する

というのがあります。
評価基準を他者から見た自分に求める限り、どう考えても安定しません。なぜなら他者はそれぞれ自分勝手な評価を他人に与えてるわけだからその基準がまちまちで当たり前だけど(他者同士なんだから)一貫性がありません。
そんなものに自分をアジャストしようとしたら自己矛盾するしか無い。それは即ち精神病という事になります。
だからあまり他人の評価に左右されない為に、予め自分の中に一貫した評価基準を策定しておく。
と口で言うのは簡単なんだけど、何を根拠にその評価基準を策定すれば良いのかという事になります。
こういう事をアレコレ考えるのは苦痛に感じる人もいるかもしれない。
だって正解なんて無い世界だし、そもそも自分に自信が無い人なんかは「こんなふうに考えてしまって自分は人の道外れてるんじゃないか」等と思ってしまったりする。
このような評価基準を考える時には皆で色々知恵を出し合って考えていくのも良いと思っています。
それが本来的な宗教の意味だと思うのだけど、残念ながらそういう活動は見た事がありません。
何か教条的に無理矢理教義を狂信したりしてる。本当は皆で考えたり意見を出し合ったりすべきだと思うのだけど。
因みに澪は自分なりに評価基準を常に考えていて、それを日記等で公開してるわけです。
是非皆さんも個々に考えていって欲しい。


②についても①と殆ど同じモードで理解できる。
他人に自分を「否定」されるのもあくまで許容範囲は理性の範囲。つまり自分に明らかな落度がある場合だけ。それ以外の自分の言動をあれこれ否定されてたら、自分の中の基準が不安定になりそれは一己の人格の否定に繋がる。
しかしこの他者による自分の否定というのは恐ろしくて意外にも自我に侵食してくる。
例えば明らかに相手の言ってる事がおかしくてこちらがそれに気づいていても、その言葉を聞く事によって自分の何かが揺らぐものらしい。だから他人に自分を否定される事そのものが自我にとっての脅威となる。
だから相手の言ってる事がおかしくて、理性的にはそんなの気にする必要が無いと解ってはいても、例えばそれを毎日言われていたらまともな精神状態ではいられなくなる。他者による自分の否定というのはそういう強制力があるので決して舐めてはいけません。
現代社会では理不尽に他人を攻撃してる人も多い。またそういう人も誰かに理不尽な否定をされてる場合が殆どでしょうか。そのような負の連鎖みたいなものがあります。
これまた大変難儀。


これについての自己防衛策なんだけど。やはり喧嘩するしかないかなぁ。あまりスマートな方法では無いのだけども。
まあ喧嘩というと大袈裟だけど、例えばそれが自分より目上の立場の人間だったとしても「コイツにアレコレ言うと反論してきて面倒臭い」位に思わせる程度には抵抗するべきだと思う。
澪の場合だとある程度は許容するんだけど、こちらが否定された場合で明らかに不当な場合はかなり強く反論します。ここで変に大人びて我慢すると自我に対するダメージが非常に大きい。命に関わる。
だから自分が死ぬよりは多少人間関係的にギクシャクしてもキッチリ筋を通しておく。
やはり今のご時世はその位して自分を守らないと、まともな自我を維持するのも困難だと思うなぁ。
実際そうして自我を守れない人は、あらぬ局面で他人を深く傷つけてしまう場合も多々ある。それはつまりどこか自分の神経回路を停止してしまってるので、他人の心が理解できないから。


さてしかしなぜ他人の評価が大切で、自分を否定されるのが苦痛なのでしょうか。
これは人間の人格或いは「自我」の構成の根幹に関わる事項だからだと思われます。
人間の場合は例えばウイルスなんかと違って、遺伝子のプログラムの機械ではありません(それがベースにあったとしても)。
他の諸動物と違うのは、「自我」というものが必要な存在。
逆にそれが無いと生物として生存を維持できないと思う。自我の無い人は病院だとかの誰かが世話をしてくれる施設でないと、例えば食糧を生産してそれを食べるだとかの単純な行為もできない。 自我が辛うじてあったとしても、精神を病んでる人の場合。例えば彼らが狩猟時代まで行かなくも、昔の農耕時代に戻ったとして普通に組織的な農作業に従事できるか。それさえ危ういのは言うまでもありません。
つまり人間にとって「自分」の精神的な維持ってのは、命に関わる問題なんですね。 その人にとって「自分」というのは、他人から見た自分と自分から見た自分を基礎としています。
これらの関わりの中から、「自分」というものを規定していき、ある「枠組み」を生成するわけですね。だから自分というのは「枠組み」だと言っても良い。
という事は、例えば自分がある人にとって父親であったり恋人であったり役割や評価が安定しないのは非常にマズい。ある人にとっては父親で、別の人にとっては恋人というように、できるだけ役割が一定で安定しているのが「自我」にとっては良いんです。


そう、ここまで言えば解ると思うけど、他者による自分の評価や自分による自分の否定というのは「自我」にとっては非常に悪影響を及ぼします。自分の「枠組み」が脅かされるんですね。当然これらのダメージが大きくて「枠組み」が破壊されると精神病になります。そして一度壊れると中々再構築できない。怖い事実かもしれないけど、一度壊した人が一生再構築できない場合の方がずっと多いと思う。
このように「自我」というものは人にとっての死活問題なんです。だから他人の言葉に傷つくというのは正常な反応で、それは自我への危機のシグナルでもあります。逆にこのシグナルが無い人は危険だと思う。ただこのシグナルはあくまで無意識的反応なので、それが常に正当なものとは限らないというだけの話で。やはり自分が他人に迷惑をかけた場合に他人から文句言われたらそれは受け入れなければならないでしょう。
さて、現代社会はこの自我を破壊するような局面が非常に多い。
誰でもいつ精神病に陥るか解らない位です。
そういう危機が多くの人の眼前にあるので、澪もこのような日記を書いたりしてるわけです。