レンズ進化論4 SonnarとPlanar 前編  改訂版 | シネレンズとオールドレンズで遊ぶ!

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カメラマンヨッピーのブログ。シネレンズやオールドレンズなどのマニュアルフォーカスレンズをミラーレスカメラに装着して遊び、試写を載せていきます。カメラ界でまことしやかに語られているうわさも再考察していきます。

2014年3月12日 記事に誤りがあったため改訂を行いました。書き換えた場所は青で表記してあります。


 
前回はトリプレッとからゾナーへと発展する過程を書きました。


1893年にトリプレットが登場しレンズを増やして収差を解決するより枚数を減らしてシャープな像を得るほうが有利であることが分かった。


イギリス勢のトリプレットに対抗すべくドイツのルドルフがテッサーを発明するとテッサーの出来の良さも手伝いトリプレットやテッサータイプレンズがレンズ界の主役に踊りでる。


その裏でベルテレをはじめとするレンズ設計者はトリプレットやテッサータイプの限界であるf2.8という開放値や諸収差補正を可能にする新しいレンズ設計に取り組んでいた。


その過程でエルノスターやスピーディック、ゾナーなどが誕生したのは前回述べたとおりである。


さらにその裏で密かに胎動し始めているレンズがあった。それがガウスタイプである。


1897年にツアイスのパウロ・ルドルフにより発明されたプラナーはダブルガウスの祖である。。ダブルガウスの祖『プラナー』であるが、4郡6枚で8面もの空気接触面を持つためコントラストの低下が避けられず、なおかつコマ収差をキャンセルすることが出来なかったため市場での反応は芳しくなかった。

構成は4郡6枚で完全対称のものと非対称のものが存在していた。市場での反応は芳しくなかったと書かれた文献もあるが特に非対称のものの写りはすばらしく、普及しなかった理由が見つからないくらい完成度の高いレンズである。ただし対称型のほうは空気接触面の多さと、この構成の泣き所であるコマ収差からくるフレアによりコントラストが低くなりがちであった。

おそらく設計のシビアさから撮影時の光りのコントロールに細心の注意が必要だったため、より使用が安易なレンズの方に人気が移ったのではないかと考えられる。


絞りを中心にレンズを対称型に配置して収差を相殺しつつ各収差補正と色消しを厳密に行える画期的な基礎設計であった。が理論は正しくとも現実的な技術の壁に阻まれた。


レンズ設計者の間でもプラナーの失敗を踏まえレンズは3郡までといった流れを生み出していた。


理由では定かではないがこの時代にプラナーに追随するレンズはあまりなかったと見られる。


その後20年以上忘れられていたこの設計が再度注目され始めたのは1920年のことである。


テーラーホブソンのH.W.リーはこのPlanarの対象性を崩すことでガウスタイプレンズの各収差を改善できることに着目はプラナータイプの有用性に着目しOPIC(オピック)レンズを発明する。



このレンズの評判はなかなかよく、シュナイダーのA.WトロニエやツアイスのW.W.メルテなど若いレンズ設計者はこの設計に追随しそれぞれ1925年にXenon(クセノン)を1927年にBiotar(ビオター)などを設計した。特にメルテのビオターはF1.4という当時としてはかなり明るいものであった。






A.W.トロニエは1934年に2群目を分離した改良版Xenonを設計した。2群目の分離により対称性を崩し

、コマ収差を補正し増加した屈折面の自由度を使いOPICより更なる収差補正を実現した。

BIotarなどに見られるぐるぐるボケ(非点収差)などの問題もクリアーしている。

このレンズ解像度、収差ともに当時としてはかなり先進的な設計であったが、マーケット的にはあまり成功していない。当時の人気としてはBiotarに軍配が上がる。

しかしガウスタイプの宿敵であるコマ収差封じにある程度成功していた点は特筆すべきである。

コマ収差封じはライカでは初代ズミクロンによってなされているがそれは20年近く後の1953年のことである。ズミクロンで有名な空気レンズも1934年にはXenonで実践されていた。

国内ではキャノンSerenar50mmF1.8によってコマ退治がなされているがこちらも1951年のことである。セレナーの場合は対称性を崩すことで張り合わせはそのままである。

トロニエにとって不幸だったのは当時まだコーティング技術がなかったこととフィルムの性能が発展途上だったことであろう。コーティング技術がなかったためレンズ設計のメリットが空気接触面の増大のデメリットの影に薄れてしまったことが考えられる。

一般のユーザーにとってレンズ設計は未知の領域であり、レンズの良し悪しは写りと評判がすべてであったであろうことは想像がつく。当時の感光材料ではXenonの先進性を表現できなかった可能性は否めない。


ちなみに個人的な感想になるが2代目XenonとBiotar,Serenar,Sumitar,Summicronを使ってみた結果XenonとBiotarとSummicronの性能が突出していた。ちなみにBiotarは1948年以降のの戦後型、Summicronは1953年発売である。


ガウスタイプはこうして発展していくが1920年代のスターはその名の通りエルノスターである。ベルテレにより驚異的なスピードで進化したエルノスターは1925年にはF1.0の明るさを達成する。このレンズは映像用であったがスチール用でもF1.8のレンズをリリースしていた。



ベルテが快進撃を続けていた1920年代、ドイツでは写真業界の再編が進んでいた。第一次世界大戦の敗戦により多額の賠償金が経済を圧迫していたドイツでは、対外競争力を強化しカメラ業界の存続を図るためメーカーを超えた大連合が進んでいた。


1926年にカールツアイス財団が主導しイカ、コンテッサネッテル、ゲルツ、エルネマンが合併してツアイス・イコンとなる。ツアイスイコン内で生産調整を行ったりラインナップを調整することにより競争力を保持しドイツ最大のカメラメーカーとなった。


この合併によりベルテレもカールツアイスの一員となる。この移動に伴いエルネマンのエルノスターは改良されて1931年にツァイスのゾナーとなる。はじめF2であったゾナーは改良されて1932年にF1.5となる。

ちなみにゾナーというレンズネームは合併によりコンテッサネッテルからもたらされてそうだ。




ドイツの巨大カメラメーカーとなったツアイス・イコンは合併により生じたラインナップの重複を解消しつつオリジナルブランドであるコンタックスを立ち上げる。F2とF1.5の2本のゾナーはこのコンタックスの標準レンズに抜擢される。一方初期のラインナップにはプラナーは入っていない。1954年に35mmF3..5として登場するが、ビオゴン35mmF2.8の廉価版としてのラインナップであった。しかもレンズ構成はダブルガウスではなくXenotarやBiometarに似た5枚玉を前後ひっくり返したような構成である。


Biogonと比べると圧倒的にシンプルな構成であることが分かる。

ちなみにBiometarの構成図

前後ひっくり返すとPlanar35mmF3.5にそっくりである。


おそらくダブルガウス構成はBiotarがあるためPlanarはそれ以外の変形ダブルウス構成に使われていたようだ。ちなみにRolleiflex用のPlanarも変形ガウスタイプである。




1932年に発売されて以来市販の35mmカメラの交換レンズとしてはもっとも明るいレンズとして君臨してきたCONTAX用Sonnar 50mm F1.5であるが、4年後の1936年についにLEICA陣営もF1.5のレンズをリリースしてきた。それがダブルガウス型のLeitz Xenon 5cm F1.5だ。設計したのは1925年にXenonを設計したA.W.トロニエである。





コンタックスとライカの看板を背負った戦いはゾナータイプとダブルガウスレンズの戦いでもあった。

王者ゾナーに雑草ダブルガウスが挑んだ戦いは、ゾナーの圧勝に終わる。

3郡7枚で6面しか空気接触面がないゾナーに対し5郡7枚のプラナーは10面もの空気接触面を持ち、そもそも勝ち目がなかった。しかもこの時代のガウスタイプはコマ収差の対策が不十分で開放付近でフレアを生じやすかった。





赤い部分が空気接触面。

光がこの部分を通るたびに透過光の数%が反射となりレンズ内反射となる。レンズ内反射はコントラスト低下を生む。


Leitz Xenon 5cm F1.5はF1.5という口径比は達成していたものの設計、生産技術ともにまだ成熟していなかった。


Planarをはじめとするダブルガウスの苦節の道のりはまだ続くのである。






レンズ進化表4


出展:ルドルフ・キングスレーク著 『 写真レンズの歴史』 アサヒソノラマ

    吉田正太郎著 『カメラマンのための写真レンズの科学』 地人書館

    ksmt.com:http://www.ksmt.com/

    無一居: http://www.photo-china.net/

   M42 MOUNT SPIRAL:トロニエの魔鏡1



Special Thanks:Spiralさん