カムチャツカ半島東海岸の
Инканюш(Inkanyush)岬 Инканюш(Inkanyush)川
Инканюш(Inkanyush)岬 (1920年代)
Инканюш(Inkanyush)川 (現在)
Мыс Сенявина(Senyavina)岬は、
岬の北を流れていた川の名Инканюш(Inkanyush)から
かつて Мыс Инканюш(Inkanyush)岬と呼ばれ
1954年に海軍提督 Дмитрий Николаевич Сенявин(1763–1831)に
ちなんで現在の名称に変更された。
ロシアの地名は先住民からの歴史的由来等を等閑視して
勝手に変更移転されるので注意が必要です。
Меновщиковの地名辞典によれば、以下のように
Инканюш(Inkanyush)はイテリメン語の地名としていますが、
Инканюш река, впадает в бух. Вестник между рр.
Паратунка и Лопатка,Елизов. р-н; возможно,ительмен.
すぐ近くに純然たるアイヌ語地名である
О. Уташютъ (utashut 島)<アイヌ語の ota(砂浜)-sut(~の根元)
が存在する事から、
Инканюш(Inkanyush)<アイヌ語の inkar(眺める/眺望)-us(~がある 存在他動詞)-i(場所)
眺めるのに適した場所の意味になります。
О. Уташютъ (utashut 島)を含むВестник湾には、
現在でも数は少ないですが、ラッコが生息しています。
クリル(カムチャツカ・アイヌ)は、イテリメンとは違って海でラッコ猟にも
従事していましたので、
おそらく、Инканюш(Inkanyush<inakar-us-i)とは、ラッコが沖合に
やって来るのを監視した場所の意味であると考えられます。
Спустя некоторое время, в 1880 году, 70 переселенцев были отправлены в бухту Вестник (тогда еще безымянную).
Колонистам было предоставлено право заниматься промыслом калана.
Однако дело это не пошло из-за крайней малочисленности зверя, бывшего тогда на грани полного исчезновения.
1880年(樺太千島交換条約後 占守島 幌筵島 新知島のクリル人を含む)70人の入植者が
Вестник湾に入植し、ラッコ猟の権利を与えらえました。しかし(乱獲の影響で)
ラッコの数が極端に少なく、ラッコ自体が絶滅の危機に瀕していたので、
この試みは上手く行きませんでした。
アイヌ語の inakar-us-iは、北海道 遠軽町の瞰望岩(がんぼういわ)が有名です。
ちなみに、inakar-us-iは、日本語では「五十嵐」と転写され
新潟県三条市の旧下田村の五十嵐川の傍にそそり立つ「八木ヶ鼻」は
北海道 遠軽町の瞰望岩(がんぼういわ)と形状が大変似ています。
五十嵐の由来は
『延喜式』神名帳 伊加良志神社
三条市旧下田村八木神社(八木ヶ鼻から遷座)
「八木神社の創建は不詳ですが大同2年(807)には八木ヶ鼻山頂に
既に八木大明神と祭る社があったとされ、守門大明神が勧請されたと伝えられてます」
以上から
「八木ヶ鼻」等が、inakar-us-iを転写した「五十嵐」と考えられます。