知里真志保『地名アイヌ語小辞典』によれば、
カラフトではnayが普通に川の意を表し, petは特に小さな川を表わすと云うが,
地名にはめったに現われて来ない。ただし,古謡ではpetを普通に使う。
この「めったに現われて来ない」petが
樺太南部の亜庭湾の東岸、中知床半島、遠淵湖からオホーツク海に面した
富内湖にかけての連水陸路に集中的に分布します。
レブンゲベツ
ハチコベツ
コチヨベツ
ヤワンベツ
ヲマベツ
シヤウヤヲマベツ
シヨーヤウシベツ
ホロベツボ
ホヌシベツ
ハルカルベツ
ウヱンベツ
ニマンケシベツ
チニクントーベツ
コマンクシベツ 他
その他
鈴谷越え(亜庭湾沿いの鈴谷から豊原を経てオホーツク海沿いの栄浜までの内陸路)
フシコベツ コイベツ ムイベツ タコイベツ
樺太西海岸 小田洲付近 ヲタベツ 久春内付近 ナヨロベツ 真岡付近 ホンベツ
樺太東海岸 知取付近 キイヌベツ 相浜付近 アイベツ
嘉永7年「蝦夷闔境輿地全図」
鈴谷越え(下図)
中知床半島を通らず、オホーツク海に面した富内湖から亜庭湾に到るルートは
樺太南部のアイヌのみならず、北方のタライカアイヌやウイルタ等も利用していました。
松浦武四郎の『蝦夷日誌』弘化3年閏5月13日の記事には
「ヲロツコ人、タライカ人は例年此処え来りて此沼通り致し、
クシュンコタン江 交易ニ行なるが、彼等此処を恐れ尊むこと甚しき由也」
とあり、主要な交易ルートだった事が窺えます。
ちなみに
嘉永7年の「蝦夷闔境輿地全図」は樺太中部のタライカ湾周辺が不正確ですが、
松浦武四郎の安政3年の樺太調査を反映した
安政7年の「蝦夷闔境山川地理取調大概図」では
空白だったタライカ湾〜北知床半島北部の地名が記載されています。
さらに、
レブンゲベツ ハチコベツ コチヨベツ ヤワンベツ ヲマベツ
シヤウヤヲマベツ シヨーヤウシベツ ホロベツボ ホヌシベツ
ハルカルベツ
ウヱンベツ ニマンケシベツ チニクントーベツ コマンクシベツ 他 以外に、
亜庭湾周辺で、江戸期の地図では一般に記載されていないpet(川)を含む地名として
1875年刊行のДобротворский辞典(下図)では、
Добротворскийの樺太滞在時(1867年〜1872年)の調査で
遠淵湖の出口近くの荒栗(露領期 Аракуль)もアイヌ語の地名としています。
Аракóй-охпех-най(Arakóy-ox-pex-nay 荒栗) トブチ(遠淵湖)に流れ込む小川
これは、
Arakóy-ox-pex-nay<arakoy(キュウリ魚)-ot(~がいる)-pet(川)-nay(川)
と分析する事が可能です。
川(pet)が、重複する地名としては、
北海道の苫小牧近郊のウトナイ湖に流れ込む美々川
美々川は pet(川)-pet(川)が語源です。
Крашенинников『カムチャツカ誌』
カムチャツカ半島西海岸南部の地名のТупитпит(Tu-pit-pit)
正確には、
Тупитпит(Tu-pit-pit)<to(湖)-un(~にある)-pet(川)-pet(川)で
Камбалиная川の南の現在のКазаков湖
あるいは
付属の地図を重視すればКамбалиная川の北の現在のTyoplaya川が
候補にあがります。
川の意味のpetが重複する場合、通常同一の語を繰り返すのが原則です。
この点
荒栗<arakoy(キュウリ魚)-ot(~がいる)-pet(川)-nay(川)の語源解釈が妥当だとすれば、
荒栗は、pet(川)-nay(川)と別の語を重複した大変珍しい地名となります。
これは知里真志保が
「petは特に小さな川を表わすと云うが,地名にはめったに現われて来ない。」
と、既に指摘したように、
その分布から、樺太では川を意味する言葉はpetの方が古く、
nayの方が新しい事を示唆しています。
arakoy(キュウリ魚)-ot(~がいる)-pet(川)-nay(川)は
petが川の意味を表す事が忘れ去られた後に
換言すれば
arakoy-ot-pet 自体が、既に川を意味する事が分からず、
それに樺太で普通に使われる川を表す新たな用語であるnayを付けて、
地名として呼称としたものと考えられます。
これは、切替先生の下記の論考からも、
樺太では「川」を意味するのは、petの方が古く、nayの方が新しい
と、言えそうです。
Добротворский辞典のАракóй-охпех-най(Arakóy-ox-pex-nay 荒栗)は
petとnayの先後関係を証明する上で極めて重要な証拠と言えます。
切替 英雄
北海学園大学学園論集(153) 2012年
「地名真駒内の由来 アイヌ語makの意味」
※5
アイヌ語には,日本語の「川」に相当する二つの語があるといわれる。
ベツ petとナイ nay。しかし同義ではない。
ベツは川の水の流れを指し,水の流れが開析し刻んだ大地の筋,
つまり谷・沢をナイという。









