5月1~3日のつづきです。

(NHK高校講座より)


次に、開設されることになった議会についてみて見ましょう。

第三十三条「帝国議会ハ貴族院衆議院ノ両院ヲ以テ成立ス」
第三十四条「貴族院ハ貴族院令ノ定ムル所ニ依リ皇族華族及勅任セラレタル議員ヲ以テ組織ス」
第三十五条「衆議院ハ選挙法ノ定ムル所ニ依リ公選セラレタル議員ヲ以テ組織ス」

議会は二院制で、選挙によって選ばれる衆議院と、皇族や華族、多額納税者などからなる貴族院が置かれたのです。
さらに「帝国議会」の章で、「凡(すべ)テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス」として「議会を通す」ことに念を押しています。
このように憲法全体を読むと、欽定憲法であり、天皇大権をはじめいろいろな制約がありましたが、議会の同意を得なければ法律も予算も成立しない、勅令=天皇の大権により発せられた法令も次の議会で同意を得なければ効力がなくなる、国民の自由や人権も議会が同意しなければ侵すことができない、というものでした。
これは、ある意味では議会を優先していると言っていいと思います。

ところで自由民権運動を進めた人たちはこういうドイツ流の憲法をどう見たのでしょうか。

民権派の人々や新聞.雑誌は総じて憲法発布を歓迎しています。
私擬憲法「東洋大日本国国憲案」を書いた自由党の植木枝盛は、ともかくこれで日本が立憲国の仲間入りしたことはいいことだ、と言いました。

イギリス型の議会政治を主張した大隈重信は、「憲法の妙は運用如何(いかん)に在る」、つまりどう運用するかが大切だとして、将来への期待を表明しました。

当時ロンドンにいて、後に「憲政の神様」といわれるようになる尾崎行雄は、ロンドンの公使館で盛大な祝宴を開いて祝っています。

そしていよいよ選挙が行われ、ポイント(3)の初期議会になるわけです。
それではまず第一回の選挙について見てみましょう。


第一回の衆議院選挙

国民の選挙で選ばれる衆議院は、小選挙区制で議員定数300、選挙権を持つのは、国税15円以上を納める満25歳以上の男子でした。
議員に選ばれる被選挙権者は同じ資格を持つ30歳以上の男子でした。
有権者の総数は45万人余りで、全人口の1.1%でした。
1890年7月、第一回衆議院選挙の投票率は93.9%。これは現在までの衆議院選挙の最高記録です。

こうして選ばれた300人の衆議院議員の内、自由民権運動の流れを汲む民党と呼ばれる人々が171人と、過半数を占めました。そして1890年11月、いよいよ最初の議会が開かれることになったのです。

有権者が全人口のたった1.1%というのは、今から見ると少なすぎるように思えるかもしれませんが、19世紀半ばのイギリスでは、人口の0.5%、フランスでは3%でした。
ですから当時としては必ずしも少なすぎるとはいえないでしょう。

また最初の衆議院選挙で当選した人についてですが、民権派の民党が多数を占めました。主な人たちを見てみましょう。

河野広中―自由党の幹部。福島事件で逮捕された人です。
田中正造―立憲改進党。後に足尾銅山の鉱毒事件で活躍しました。
中江兆民―フランスのルソーの『社会契約論』を紹介した思想家です。
尾崎行雄―こちらは大隈のかつての部下で、明治から昭和の初めまで政治家として活躍しました。

300人の議員の平均年齢は42歳。若くて理想に燃えた人々でした。
政府は議会でこういった民権派の議員たちを相手にしなければならなりませんでした。

つづく