今日2月5日は、三蔵法師玄奘の命日だそうです。

コトバンクによれば、

玄奘 Xuán zàng 602‐664

中国,唐代初期の僧。西域,インドへの求法僧で,一般には三蔵法師として知られる。俗姓は陳氏。洛陽に近い陳留郡(河南省)緱氏県に生まれた。13歳のときに出家し,兄の長捷法師のいた洛陽の浄土寺に住んで経論を学んだ。まもなく隋・唐王朝交代期の混乱期にあい,618年,兄とともに長安に入ったが,兵乱のために学僧の多くが蜀(四川省)に逃れて仏法の講席ひとつさえなかったので,ついに蜀におもむき空慧寺に入った。622年(武徳5)に具足戒をうけ,まもなく成都から長江(揚子江)を下って荆州に出,相州,趙州をへて落着きを取り戻した国都の長安に舞い戻り,大覚寺に住んで道岳,法常,僧弁といった学僧から俱舎論や摂大乗論の教義を授けられた。


と説明がありますが、ボクたちにとっては「西遊記」の三蔵法師として有名です。

ボクは東洋大学のインド哲学科出身ですので、三蔵法師が漢訳した仏典にはお世話になりました。が、その話はちょっとおいておいて、ボクが三蔵法師玄奘の話で感動するのは、次のことです。

彼がインド取経の旅で往路にバーミヤンを通った時、この地は仏教が盛んな国だったのですが、帰ることには、イスラム教の勢力が押し寄せていた、という事実です。

Wikipediaの玄奘の記述のなかに「西域の旅」という箇所があります。

玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国、役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌に至った。

高昌王である麴文泰は、熱心な仏教徒であったことも手伝い、玄奘を金銭面で援助した。玄奘は西域の商人らに混じって天山北路を辿って中央アジアの旅を続け、ガンジス川を越えてインドに至った。

ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講している。

こうして学問を修めた後、天山南路を経て帰国の途につき、出国から16年を経た貞観19年1月(645年)に、657部の経典を長安に持ち帰った。幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価したので、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われることはなかった。

上記の赤字の箇所ですが、仏教国がイスラム教へと変わっていく、まさにその時代でした。

645年といえば日本では大化の改新の年です。聖徳太子が摂政になったのが593年。太子は仏教の教えを国の根幹にしようとしました。太子が亡くなったのが622年です。仏教の西の端ではイスラム教に、東の端では仏教による新しい時代に、という世界史上のエキサイティングな時代であったと思います。