自由についての定義の中で、社会における自由とは選択の自由であると定義しました。

選択には必ずその結果に対する責任が伴う、ということも述べました。

民主的で自由な社会では、人は自分の意志で多くのことについて選択することができます。しかし、その選択の結果については自分で責任を負わなければならない。それが、社会を維持していくうえでの基本的なルールであり、社会的な存在としての人間の倫理の基本です。

だからこそ選択にあたってはよく考えなければなりません。間違った選択を避けるために自ら知識を求め、情報を集め、学ばなければなりません。

選択に伴う責任を自覚することで、人はよく考える必要に迫られます。

考えたうえで選択することで、自らの選択の結果に対する覚悟が生まれます。

結果を自らの責任で受け入れなければならない、という覚悟を持つことで、人は主体的な意識もって選択の自由を行使するようになります。

 

自由な社会であればあるほど、選択の機会は多くなります。何かのコマーシャルのフレーズではありませんが、人生は選択の連続です。ですから、よく考えて、結果に対する責任を自覚したうで、主体的に選択できるように、子供のときから躾け、訓練し、習慣づけることが大切です。少なくとも成人になるまでに、それが出来るようにすること。これこそが教育の最優先の目的であるべきです。

これは家庭の、就中親の、学校等の教育機関の、そして社会全体の責任です。

この自立した市民としての当然の意識と能力の未熟な市民が増えていけば、必然的に自由で民主的な社会は堕落し、主権者としての市民は無力となり、無責任で理不尽な社会的風潮が瀰漫し、衆愚政治や全体主義の進出を許すことになるでしょう。

 

これは昭和生まれの還暦に近い筆者の偏見かもしれません。愚痴かもしれません。

しかし昭和の頃の日本人には、そうした当たり前の覚悟があったように思います。日々の生活の中で起こる様々な事件や不幸に対して、あるいは社会的な不正義に対して、自分なりに受け入れ、自分なりに戦い、他人のせいにせずに結果を受け止めたうえで、何とかそれを乗り越えて生きていく。そんな覚悟と逞しさがあったような気がします。

長い戦争と破滅的な敗戦後の混乱を生き延びた人たちと、そうした親たちに育てられた人たちが、社会の主体だったからかもしれません。

それにしても、いつから日本人は自分の責任で物事を決めることを回避する癖をつけてしまったのでしょう?何でも人のせいにしないと気がすまなくなったのでしょうか?

マニュアルに書いてなかったからできなかった。

説明書に書いてあったからそのとおりにしたのに。

ネットの情報を信じたたけです。

だって、みんなやってるでしょ?

そんなこと教わってないし。しらないし。

そして、結論は「私のせいじゃない」「私は悪くない」ということにしてしまう。

これは一見、私はルールをちゃんと守った。与えられた情報や指示に従った。間違ってない。だから私は悪くない。という論理にかなった言い分のようですが、それは違います。

他人の決めたルールを無批判に鵜呑みにして考えなかった。他人の指示や判断に身を任せて、自分で選択することを放棄する、という選択をした、とうことでしかありません。

よく考えもせずに、他人の選択に身を委ねるという選択をした結果なのですから、それは自分のせいであり、自分の責任なのです。

にもかかわらず、誰かのせいにするための誰かを捜さなければ気がすまない。

誰かのせいに、何かのせいにしなければ、乗り越えられない。生きていけない。

何という惰弱で無責任なふるまいでしょう。とても自立した市民とは云えません。

 

筆者の経験から云えば、人生の不幸の過半は自分の責任です。

残りの多くは天災などの不可抗力です。

無知であったために不利益を被るのは自分のせいです。よく考えずに愚かな判断したために不幸な結果に陥るのも自分のせいです。人が教えてくれるのを待っているのではなく、身を守るために、社会的に正当な自分の立場や利益を守るために必要な知識は、自ら求め学ぶべきです。

それでも人は間違えるものです。誤った選択をした結果招いてしまった不幸は、自分の責任として受け止めなければなりません。そこから学び、二度と同じ間違いを繰り返さないための教訓を得なければなりません。その不幸を乗り越えることで、さらに逞しく生き抜く力を身に着けなければなりません。

かつて多くの日本人は、日々の生活の中で、そうした訓練と経験を普通に積み重ねて成長していたように思います。

覚悟をもって自ら選択する。結果を自分の責任において受け入れる。他人のせいにしない。

このような当たり前のことを、改めて問わなければならないことをとても残念に感じています。