私は少年時代からナチズムに興味を持っていました。中学生のときには社会主義に興味を持ち、学生時代を通じて共感を抱いていました。資本主義の人類を呪縛する力を理解するようになったのは社会人になってからのように思います。
すでに還暦をすぎ、社会人としてのキャリアを終えたいまになっても、ナチズムへの興味は続いています。社会主義については1990年のソ連崩壊を見るまでもなく、すでに20代のころから失望していました。なぜなら、社会主義、さらに共産主義はその理論において、人間の感情や欲望を無視する、とまで云わないまでも軽視していると思われたからです。
ナチズムについては、いまでは全く共感するところがありませんが、人間の根源的な感情や不安感情に訴える力、魅力という点で、いまも興味を持っています。それは人間の逃れがたい弱さを虜にする媚薬と云ってもいいのかもしれません。
資本主義は人類が生み出した最も強靭なシステムであり、社会思想と云えるでしょう。なぜなら人間の欲望を肯定し、それを燃料として駆動する精緻で合理的なエンジンのような社会を実現するからです。
ただ、忘れてはならないのは競争を肯定する社会においては、必ず勝者と敗者が存在するということです。敗者にも生存する権利を認め、復活戦に挑む機会を与える、寛容で多様性のある社会を維持することに留意しなければならない。
敗者が固定されてしまうと精神的にも、生活のうえでも格差が広がり、これを放置すれば少数者への富と機会の偏在を促すことになります。その結果として、富と機会を得られない側に固定された多数の市民の中に、社会への怨嗟(ルサンチマン)が蓄積されていく。それがナチズムやファシズムへの呼び水になることは歴史が教えています。
人間は知性を有していますが、同時に感情の動物でもあります。生存に必要な欲求を越えた多様な欲望を持つ、おそらく唯一の動物でもあります。よりよい社会、バランスの取れた安全な社会を構築するための処方箋を考え出すだけの知性を、人間は持っているし、実はすでにそれを理性では理解しているのでしょうが、感情と欲望がその実現を常に妨げるのです。
世界の各地で教条主義的な宗教や思想、非合理な陰謀論が市民、大衆の心を捕え始めています。この国でも社会への怨嗟を動機とする殺傷事件が多発しています。個人テロが蔓延し始めていると云ってもいいでしょう。残念ながら私たちの世界は理性を離れ、感情と欲望の側へ流れつつあるようです。その先に待つのは破滅的な惨状であることは、これもまた歴史が教えているのですが。
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