競輪選手になった経緯 | 競輪_大西祐オフィシャルブログ

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日々の生活の出来事を、なんとなく記していきたいです。

少し前、20000年ぶりに「なぜ大西さんは競輪選手になったのですか?」との取材を受けたので、記してみる。



1.1【自転車との出会いは小学4年生】

自分が通っていた小学校では、4年生から自転車に乗れるようになっていた。母親の友人にバイク・自転車屋さんがいたので、そこで小さなマウンテンバイクを買ってもらった。


1.2【きっかけは鍋】

父親の勧めでマウンテンバイクの大会に出ることに。優勝したら鍋を食べさせてくれるとのことで(鍋と言っても、豚肉、白菜、もやし、エノキだが、今の自分においてもシンプルな鍋は大好きなもの)。

初めて出た小4の時は7位だったが、翌年は僅差で優勝して無事に鍋を食べた記憶。


1.3【観音寺競輪場も小4】

G2ふるさとダービー関連で、観音寺競輪場でのバンク走行体験や固定自転車でのスピードチャレンジのイベントに参加した。これが『競輪』との初めての接触であり、競輪場での未知なるスピードを体感出来たことが、後の自分にとってかなり大きな経験となった。


1.4【何となく競輪選手】

小学校の卒業アルバムには、競輪選手になる、との夢が書かれてある。
これは勿論具体的なそれではなく、子供がよく言う野球選手〜や芸能人〜の類である。


2.1【陸上競技の合間に自転車】
中学時代は陸上競技(400m,200m,4×200mR)をメインに、部活後や土日に自転車に乗っていた。その頃に、三宅真央、佐伯智恵、北野佑汰の出身校である香川県・笠田高校での練習にも参加させてくれることになり、そこでトラックレーサーにも乗れるようになり、その縁もあってで後に3人を弟子にすることにもなった。

2.2【勉強が楽しい】
決して裕福な家庭では無かったが、両親に頼み込んで学習塾に通わせてもらった。アウトドア(運動)よりインドア(勉強)の方が好きだったし、どんどん勉強の楽しさが分かってより勉強するようになっていった。優先順位としては、勉強,陸上,自転車。

2.3【安定を求めて】
小学生の時とは違い、具体的な将来の目標を定めて、且つ、お金がかからない国立高松高専(現・香川高専高松キャンパス)への進学の為に、とにかく勉強した。苦しかったが痛みはない、、"苦痛"ではなく、必要な苦しみであることは理解していた。


3.1【今の自分のベースが出来た】
実家は香川県三豊市なので通学ではなく、高専時代は学生寮での生活。ここで何でも自分でやることが普通になり、日々の時間を有効に使うことが出来た。
高専の教官は何かしらのプロフェッショナルな知識を博しており、一般教養では数学【無限、微分積分、トポロジー】、物理【宇宙論、ニュートン力学、相対性理論、量子力学】、及び、専門教養では橋梁設計【構造力学、設計、環境アセスメント】、高度物理【波動解析、光電効果】等、より勉強に没頭できる環境があった。

3.2【具体的な将来設定】
高専は5年制で、就職、(5年+2年の合計7年在学出来る)専攻科、他大学へ編入の3パターンが主であり、自分は在学中に国家Ⅰ種の資格を取り、国土交通省への就職を目指した。安定した国家公務員をより具体的に狙っていくことにした。
寮生活では時間に制限があったので、16:00の終業後は直ちに自転車の練習、19:00から食事、19:30から入浴、20:00から雑務をして、21:00からは勉強の生活。3年生からは専門教養がメインとなり、日々の勉強やレポートが激しく、寝れるのは25:00あたりだった。

3.3【自転車でも具体的に】
少し話は戻るが、高専に入ってからも自転車は続けていた。平日は一人で、土日は実家に帰り、前述の笠田高校に混ざり練習した。
種目としては、短距離のスプリントや1kmT.T.をメインにしていた。
高専1年時の四国インターハイ、、旧・松山競輪場での開催で、群を抜いて注目される選手がいた。高校3年時の橋本強さん(愛媛89期・愛媛県・松山聖陵高校)だった。あの人が走る時は、選手だけでなく、競技役員、保護者、観客の全てが注目していた。圧勝だった。
その年の全国インターハイ、、取手競輪場での開催、、1kmT.T.の最終組BSスタート、、所謂大トリの出走に、橋本さんがいた。そこには松山で見たのと同じ光景。全員が一点を見ている。圧勝、そして、ウイニングラン。カッコ良すぎた。今でも鮮明に覚えている。
ここで、橋本さんが松山聖陵高校→競輪学校と聞き、また、自分も種目を1kmT.T.に絞る事を決めた。

3.4【世界選と技免】
勉強(国土交通省(国家公務員)を目指して)をメインに、自転車も当然しっかり乗っていた。ほぼ単独での練習で短時間しか乗れなかったが、結果的にそれが自分に合っていたのかもしれない。タイムは順調に伸び、全国制覇もし、日本代表にもなれた。
高専3年の夏、アメリカ・ロサンゼルスでのジュニア世界選手権に派遣され、チームスプリントでは準優勝することが出来た(1柴崎、2菅田のおこぼれかも(笑))。
その帰りの飛行機内、、同級生の日本代表メンバー(柴崎淳、菅田壱道、高橋紀史、房州輝也(、早生まれの西村光太さんは早稲田大に在学中))と進路の話となり、自分以外の全員が競輪学校とのことだった。
中学時代から安定した将来を求めて国家公務員を目指してきたが、突然目の前に現れた、真逆の不安定な競輪選手という未来。
その当時、指定された全国規模の大会優勝者(※自分はジュニアオリンピックカップの1kmT.T.優勝)には、競輪学校の技能試験免除の資格(技免)が与えられており、かなり有利に試験をパス出来る状況であった。
迷った。激しく迷った。
両親にも教官にも強く反対されたし、自分も国家公務員の夢をここまできて諦めることにかなり抵抗があった。
しかしながら、高専4年生になると8時間授業となり勉強量も甚大となり自転車に乗れなくなる、日本代表メンバーの誘い、小学校の卒業アルバム、橋本さんの存在、獲得していた技免資格…最終的には進路変更し、競輪選手を目指す事に決めた。


4【振り返った時に】
マクロなニュートン力学では未来が確定しているが、ミクロな量子力学では確定していない。量子力学と言うよりも、シュレディンガーの猫の方がお馴染みかもしれない。
高専3年の夏でも、面接試験の際でも、選手になった今でも、、自分からでも他者からでも、、永遠に背負っている『競輪選手になってどうだったのか?』という命題。
自分として、これには明確な解を持っている。
『選手を辞めて振り返った時に、競輪選手になって良かった、と感じられたら真である。』
これからどうなるか分からないし、どうなるかは"Que sera,sera"としか言えない。1秒先の未来も分からないし、1秒前の過去も本当かどうか分からない。
ニュートン力学も量子力学も敬愛しているので、尚更この言葉が自分には適している。
過去の自分と共に、これからも未来の自分と生きていく。