バカは夜明けによく笑う(仮) -3ページ目

自己顕示欲

ツイッターをはじめて2年でしょうか。
はじめの頃はつぶやいて見ず知らずの人から反応が返ってくるのが楽しく、言葉を整えたり、おもしろいこと書こうとしたり。

しかし、元々あまりつぶやいてなかったのですが、ここ半年ぐらい更につぶやかなくなりました。
時間が足りないっていうのもあるのですが、何か恥ずかしさみたいなものを感じるようになっていました。

自己顕示欲


自分の存在を示したい欲というのでしょうか。
要するに「私を見て!」ってことでしょうか。
誰にでもある欲だと思うのですが、どんなツイートであれ多くの人の目に止まるとこに発信している時点で突き詰めていくと自己顕示欲の塊に思えます。
つぶやくことで、返信がくるのも、お気に入りに登録されるのも、リツイートされるのも、誰かに見てもらえるだけでも、自己顕示欲を少なからず満たしてくれる。

僕も含め一般人のTwitterやブログって結局のところ自己顕示欲発散ツールのような気がしてきました。

他人のツイートに自己顕示欲が含まれているからってどうのこうのはないのですが、ただ僕の性格上その「私を見て!」を表に出すことが恥ずかしく思えてきてつぶやかなくなったというか、つぶやけなくなってきました。

我ながらなんて面倒くさい性格なんでしょう。
もっと気楽に楽しめばいいのにと自分でも思います。

何だか隠したくなる自己顕示欲


多くの人が「私なんて...」「僕なんて...」という日本人に多い自分を卑下する感覚を持っているためか、違う目的を強調したりして「私を見て!」を隠し、ブログなりTwitterをやっている気がします。

「別に見られたいと思っていない」「自分のために書いてるだけだから」
どれも僕と同じように意識下で自己顕示欲をさらすのが恥ずかしく感じ、それを隠している言葉のように思えます。


自己顕示欲という原動力


自己顕示欲がある種の原動力になっているのも確かです。
自己顕示欲が全くない人がいたらどうでしょう。不気味ささえ感じます。

それに自己顕示欲がなければならない職業もたくさんありますし、仕事でTwitterを使ってる人からしたらアピールしてなんぼのものです。顧客の為にやっている部分も大きいのだと思います。
何かを成しえた人や何かを発信している人が自己顕示欲を満たすなんてことは大いにけっこうなことです。多分そうゆう人たちは自己顕示欲を満たすためにやっているわけじゃないと思いますが。

何もない自分が何もないつぶやきで自己顕示欲を満たそうとする。
そんな自分の隠した自己顕示欲を見透かされることが恥ずかしい気がして、結果つぶやかず、コミュニケーション手段として誰かと会話したり情報を得るためだけにTwitterをやっている感じになりました。

自意識過剰


自己顕示欲を隠そうとするから恥ずかしい気もします。素直にさらけだしたほうがいいのでしょうか。
でも素直にさらけだせないのが素直な自分のような気もします。

などなどと長いこと考えを巡らせて思ったことは、
恥かしいってことは「自分が他人にどう思われるか」を考えすぎているということ。
結果、他人に自己顕示欲を見透かされるのが恥ずかしいと感じ、つぶやかなくなった。
いわゆる「自意識過剰」ってやつです。

小心者、恥ずかしがり屋って多くは自意識過剰からきている気がしてきました。
そして何となく自分の中で落ち着いた考えは、
「何事も適度がいいな」という普通の答えに至りました。

いきすぎた自己顕示欲は他人に疎ましく思われますし、現にそんな言葉を2年の間に何度も見てきました。
他人によく思われたい。嫌われないよう振舞おうとする自意識もなくなったら酷いことになりますし、でも自意識過剰で動けなくなるのもつまらなく思います。

あ、別に悩んでいたわけじゃなく、考えることが楽しかったのです。

さらけだした人間味


最近は自己顕示欲に限った話じゃないですけど、さらけだした人間味ある人に惹かれたりします。

「恥じらいがあった昨日より、さらけだした今日のほうがより、少し黄ばんで見えるけど愛しさは増えるよ」って誰かが歌ってましたね。
別に人間味について唄った歌ではないと思いますが。

みんな嬉しいことあれば誰かに聞いてもらいたいし、嫌なことあれば誰かに愚痴りたくなる。
そんな人のほうが近くに感じるし、愛されるのかな。
もちろん愚痴るにしても適度に。


というわけで自己顕示欲まるだしのブログでお送りしました。
とりあえず明日から下書きにたまったブログとツイッターなどを更新していくので「見てほしいです。」←(さらけだしてみた)



って3ヶ月前の自分が書いてたけど今だ自意識を突き抜けれず。

いや、でもたった今突き抜けたわー。完璧突き抜けたわー。
もう怖いものないわー。イェーイ...