Msgありがとう。たくさんMsgを頂けることは、とてもうれしいことです。迷惑なことなど露ほどもありません。問題は全て私の側にあります。今回は過労が原因でしたが、そうでなくとも、返信は遅れる場合が多いと思います。このことについても、英明な理解とcompassionをいただき、とてもうれしく思っています。本当にありがとう。
言葉は、私にとっては最も大切で神秘的なものです。それはαであり、おそらくはΩでしょう。
Apocalypsis Ioannis(ヨハネ黙示録)が語る言葉は、私と言葉との関係をも開示しています。
Ego Alpha et Omega, primus et novissimus, principium et finis.
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。【黙示録 22:13】
さらに、さらに、輝くばかりの薔薇色の光さす美少年だった頃、私は一つの言葉に突き当たったのです。それは雲のなかを歩いてるような、他方、岩壁に頭をぶつけているような、奇妙な感覚でした。
In principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum.
Hoc erat in principio apud Deum.
Omnia per ipsum facta sunt, et sine ipso factum est nihil, quod factum est;
in ipso vita erat, et vita erat lux hominum,
et lux in tenebris lucet, et tenebrae eam non comprehenderunt.
【Nova Vulgata Evangelium secundum Ioannem 1:1~5】
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
【新共同訳 ヨハネ福 1:1~5】
これが私のすべての出発点でした。この言(ことば/logos)を探す旅こそが、巡礼の旅であり、私の人生そのものだと思います。まさにDeus erat Verbum―ことばは神なのです。
このことについては、Au CommencementのプロログとEpiphaniae( 2008/10/13(月)付け)に異言で表明しました。"Epiphaniae"はブログ開設後間もない頃書いたものですが、一度削除して再掲載したため、日付は遅くなっています。開設後しばらくは、ほとんど誰も来ませんでしたし、ノーコメントでしたから、日本語を使う必要もなかったのです。
(その後、二人の古い友達が私を発見して来てくれるようになりました。このブログも27日で1年になりますが、友達の助けがなければ、とおの昔に閉鎖していたと思います。二人の友には本当に感謝しています)
そういうわけで、真正面から、自らの存在性を賭けて紡いだ言葉を語りかけて来る人の言葉は、正面で受け止め、実存性を賭けて反芻し、返信すべきだと考えています。言葉を、そのようにあるべき姿で受け止め、あるいは現わすことは、言葉の本来性に適ったことだと思います。
碩学M.Heideggerは"言葉は存在の家である"と言いました。では、"存在が有るのではなく、むしろ、無ではないのか"と彼が言い放った時、それはいかなる意味の開示であったのでしょうか?この20世紀最大の哲学者と呼ばれる男は、カトリックに生まれ、神学から思索の旅を始めました。彼の言葉は、前掲ヨハネ福音書の冒頭部分と、深い深い繋がりがあると確信しています。
これから先は存在論の分野です。今、この分野に立ち入るのは避けます。本題から離れてしまいますし、簡単な論旨で片付く問題ではないからです。ここでは、言葉が、神や存在と別ちがたく結ばれた、何ものかであるという了解に立った上で、本題の言葉のコミュニケーションに係わる部分について書きます。
了解は意識の作用です。ですから、意識のありよう、了解のしかたによっては、嘘を並べ立てることも、たてまえだらけの言葉も、陳腐な常識論も、お為ごかしも全てが可能です。公務員や政治家、実業家の言葉は荒野の砂嵐の味がします。
言葉をあのようにしか扱えない自分の意識に絶望すらできない人たちが、社会の趨勢や、人の生死の要を握っていることは、恐ろしくも最悪のことだと思います。今回の金融経済危機も、次から次に起こる社会的不幸も、真の原因はこんなところにあると思っています。
反対に、自らの意識(意識のなかでは、本来、生命的なものも、感性的なものも、知性的なものも、未分化に存在すると思う)の深みから、本来性にたち返ってて発せられた言葉は、自らの意識の動きを露呈し、ある場合に、これと向き合う人の意識の表層を突き抜けることがあると思います。それこそが私と友の意識の深いコミュニケーションを可能にし、遥かなる地平の彼方への旅を可能にすると思っています。
書くことも同じ事です。私は書きながら考え、考えながら問題を模索しています。すでに、答えを出してしまったことについて書いても、コピー以上の意味があるでしょうか?どこかで読んだような定説を書くことにどのような意味があるでしょうか?書くことの意味は、自然の中で最も壊れやすいひともとの葦としての、考える旅の全行程に、記述によって加わり、自己意識と言葉の息吹を伝えることだと思っています。
ただ、このようなレトリクには、Veneさんが仰るとおり、エネルギーと時間を必要とするようです。それでいつも遅くなるのです。しかし、返信を待つ立場からすれば、無視や否定あるいは誤解の心配をする事態かもしれません。本当申し訳なく思います。しかし、Veneさんや友達に関しては、その心配はまったくないことを言明しておきます。
Veneさんの素晴らしいところは、自分の意識のなかで、掬い取った言葉を、意識が綴るままに、誠実に伝えようとすることだと思います。飾りもせず、誇りもせず、自らの意識を、言葉の本来性によって伝えようとする無垢で純粋で崇高なpassionと言ったらよいでしょうか。いつまでもそのままで、たくさんのMsgをいただけたらうれしいです。Veneさん、いつもいつもありがとう。
振り返れば、あれから1年、また、夏の日が訪れました。よくぞ続いてきたと思います。世界有数の不人気ブログであることに変わりはありませんが、始めた時の気持ちは、今も変わりません。
"ただ、考えるひともとの葦として、logos(言葉)を求める巡礼の旅が、新たなる地平を切り開き、新たなる光景に出会えることを願って止みません"
"さあ、あなたも巡礼の旅に出てみませんか。遥かなる地平の彼方にどのような光景が広がって行くのか、夏の日、野の花の咲き乱れる光の大地を、風と共に舞ってみませんか"
"願わくば、聖ミカエルの加護と聖マリアの導きあらんことを"
言葉は、私にとっては最も大切で神秘的なものです。それはαであり、おそらくはΩでしょう。
Apocalypsis Ioannis(ヨハネ黙示録)が語る言葉は、私と言葉との関係をも開示しています。
Ego Alpha et Omega, primus et novissimus, principium et finis.
わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。【黙示録 22:13】
さらに、さらに、輝くばかりの薔薇色の光さす美少年だった頃、私は一つの言葉に突き当たったのです。それは雲のなかを歩いてるような、他方、岩壁に頭をぶつけているような、奇妙な感覚でした。
In principio erat Verbum, et Verbum erat apud Deum, et Deus erat Verbum.
Hoc erat in principio apud Deum.
Omnia per ipsum facta sunt, et sine ipso factum est nihil, quod factum est;
in ipso vita erat, et vita erat lux hominum,
et lux in tenebris lucet, et tenebrae eam non comprehenderunt.
【Nova Vulgata Evangelium secundum Ioannem 1:1~5】
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
【新共同訳 ヨハネ福 1:1~5】
これが私のすべての出発点でした。この言(ことば/logos)を探す旅こそが、巡礼の旅であり、私の人生そのものだと思います。まさにDeus erat Verbum―ことばは神なのです。
このことについては、Au CommencementのプロログとEpiphaniae( 2008/10/13(月)付け)に異言で表明しました。"Epiphaniae"はブログ開設後間もない頃書いたものですが、一度削除して再掲載したため、日付は遅くなっています。開設後しばらくは、ほとんど誰も来ませんでしたし、ノーコメントでしたから、日本語を使う必要もなかったのです。
(その後、二人の古い友達が私を発見して来てくれるようになりました。このブログも27日で1年になりますが、友達の助けがなければ、とおの昔に閉鎖していたと思います。二人の友には本当に感謝しています)
そういうわけで、真正面から、自らの存在性を賭けて紡いだ言葉を語りかけて来る人の言葉は、正面で受け止め、実存性を賭けて反芻し、返信すべきだと考えています。言葉を、そのようにあるべき姿で受け止め、あるいは現わすことは、言葉の本来性に適ったことだと思います。
碩学M.Heideggerは"言葉は存在の家である"と言いました。では、"存在が有るのではなく、むしろ、無ではないのか"と彼が言い放った時、それはいかなる意味の開示であったのでしょうか?この20世紀最大の哲学者と呼ばれる男は、カトリックに生まれ、神学から思索の旅を始めました。彼の言葉は、前掲ヨハネ福音書の冒頭部分と、深い深い繋がりがあると確信しています。
これから先は存在論の分野です。今、この分野に立ち入るのは避けます。本題から離れてしまいますし、簡単な論旨で片付く問題ではないからです。ここでは、言葉が、神や存在と別ちがたく結ばれた、何ものかであるという了解に立った上で、本題の言葉のコミュニケーションに係わる部分について書きます。
了解は意識の作用です。ですから、意識のありよう、了解のしかたによっては、嘘を並べ立てることも、たてまえだらけの言葉も、陳腐な常識論も、お為ごかしも全てが可能です。公務員や政治家、実業家の言葉は荒野の砂嵐の味がします。
言葉をあのようにしか扱えない自分の意識に絶望すらできない人たちが、社会の趨勢や、人の生死の要を握っていることは、恐ろしくも最悪のことだと思います。今回の金融経済危機も、次から次に起こる社会的不幸も、真の原因はこんなところにあると思っています。
反対に、自らの意識(意識のなかでは、本来、生命的なものも、感性的なものも、知性的なものも、未分化に存在すると思う)の深みから、本来性にたち返ってて発せられた言葉は、自らの意識の動きを露呈し、ある場合に、これと向き合う人の意識の表層を突き抜けることがあると思います。それこそが私と友の意識の深いコミュニケーションを可能にし、遥かなる地平の彼方への旅を可能にすると思っています。
書くことも同じ事です。私は書きながら考え、考えながら問題を模索しています。すでに、答えを出してしまったことについて書いても、コピー以上の意味があるでしょうか?どこかで読んだような定説を書くことにどのような意味があるでしょうか?書くことの意味は、自然の中で最も壊れやすいひともとの葦としての、考える旅の全行程に、記述によって加わり、自己意識と言葉の息吹を伝えることだと思っています。
ただ、このようなレトリクには、Veneさんが仰るとおり、エネルギーと時間を必要とするようです。それでいつも遅くなるのです。しかし、返信を待つ立場からすれば、無視や否定あるいは誤解の心配をする事態かもしれません。本当申し訳なく思います。しかし、Veneさんや友達に関しては、その心配はまったくないことを言明しておきます。
Veneさんの素晴らしいところは、自分の意識のなかで、掬い取った言葉を、意識が綴るままに、誠実に伝えようとすることだと思います。飾りもせず、誇りもせず、自らの意識を、言葉の本来性によって伝えようとする無垢で純粋で崇高なpassionと言ったらよいでしょうか。いつまでもそのままで、たくさんのMsgをいただけたらうれしいです。Veneさん、いつもいつもありがとう。
振り返れば、あれから1年、また、夏の日が訪れました。よくぞ続いてきたと思います。世界有数の不人気ブログであることに変わりはありませんが、始めた時の気持ちは、今も変わりません。
"ただ、考えるひともとの葦として、logos(言葉)を求める巡礼の旅が、新たなる地平を切り開き、新たなる光景に出会えることを願って止みません"
"さあ、あなたも巡礼の旅に出てみませんか。遥かなる地平の彼方にどのような光景が広がって行くのか、夏の日、野の花の咲き乱れる光の大地を、風と共に舞ってみませんか"
"願わくば、聖ミカエルの加護と聖マリアの導きあらんことを"