

Maria Rosa Mystica〔神秘のバラのマリア〕(上)
マザーテレサとMaria Rosa Mystica(下)
マザーテレサとMaria Rosa Mystica(下)
眼前ではない、何か係わりがあるかもしれないような場所で、何かが起こった時に、まず最初に頭に浮かぶのは家族や友人、知人の安否です。なぜならば、彼らは、すでに現実存在として認識されているからです。
他方、事件の渦中にある見知らぬ人々は、現実存在として認識されていませんので、頭に浮かぶはずもないのです。事件が起きて初めて、被害者や犠牲者が認識されるわけですから、彼らに対する何らかの思いが生じるまでには時間が必要です。そして、顔も名前も知らない現実存在としての認識のない人たちであれば、現実感がより希薄になるのもやむを得ないことだと思います。
ですから、Veneさんが感じている麻痺感は、誰にでも生じるものだと思います.私も同様ですから、よく分かります。こうした現実感の欠如ないしは希薄性を救うのは、意識的で知的体験によって磨かれたた感性に基づく、想像力とCOMPASSIONだと思います。そこに、反復の時を刻む意味があり、犠牲者と共に、悲劇を克服すべき明日への決意のための祈りや黙祷が意味を持つのだと思います。
人間は愛されることが必要です。愛によって人は人になれるのだと思います。そして、愛を求める衝動そのものが、愛するという意識となって、最も身近な人に向うのでしょう。これが自己愛の原型だと思います。やがて、意識世界の広がりに伴って、対象は隣人、他者へと広がってゆくのだと思います。原点である自分を愛するのは大切なことです。神もあなたを愛しているのですから。そして、自分を愛せない心が、愛を受け入れたり、他者を愛するのは困難だと思います。
≪Au Forum≫の【James Joyce the Deportee Ⅲ】でも述べましたが、愛は常に根源的な否定とambivalence(相反する感情が共存する状態)を伴います。あなたが感じている罪悪感や自分勝手な自分に対する不安、あるいは愛に伴う痛みや犠牲は、愛が無ければ現れ無いもの―いわば愛が分泌する根源的な否定―あるいは愛のEpiphaniaeをパラドクシカルに告げるもの― 溢れるような愛のさなかから生じて来るものだと思います。
人の愛はそうした否定と犠牲を介してより大きく、より深く育まれてゆくのだと思います。それは、敬虔な修道女が、憧れと畏れのなかで、AGAPEへ道を求めて、祈る姿にも重なります。凍てついた巡礼の道で、跪き見上げる空にも、ヤコブの階は現われることでしょう。光の階を降りたもうMARIA ROSA MYSTICA に、永久の栄光あらんことを。
*このコメントは下記の二つのURLの対話に係わり、なお且つ、http://blogs.yahoo.co.jp/raticani/31481363.htmlとも意味上の関連性を持ちます。
vid. http://blogs.yahoo.co.jp/raticani/30710548.html
http://blogs.yahoo.co.jp/raticani/31327714.html
http://blogs.yahoo.co.jp/raticani/31327714.html

