☆☆☆ 聖ニコラウスとサンタクロースについて【つづき】 : バーバラ・クーニー作「クリスマス」を巡って ☆☆☆

前回は、Veneさんのシンタクラースについてのお話でした。活き活きとした体験談ありがとうございました。改めて御礼を申し上げます。今回は、予告どおり、シンタクラースに関する私の幻想です。

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聖ニコラウス/Sanctus Nicolaus de Myraは海運や船乗りそしてアムステルダムの守護聖人で、オランダ語では、Sint NicolaasあるいはSinterklaasと言います。彼はまた子供の守護聖人で、子供たちにとっては、毎年プレゼントを運んで来てくれる、大好きな、シンタクラースなのです。シンタクラースは、オランダ移民と共にUSAに移入して、やがて、Santa Clausに変化して、全USAへ、世界へと、広まっていったようですね。

Sint Nicolaasの記念日(帰天した日)は12月6日ですが、シンタクラース祭のピークは12月4日から始まるようです。この夜子供たちは、暖炉の側に靴を置いて、シンタクラースの馬のために、にんじんやご馳走を置いて眠りにつくそうです。すると、朝には、詩的な言葉が添えられたプレゼントが貰えます。良くない行動をした子供は別だそうですが。それにしても、クリスマスには、Uターンしたサンタクロースからも、プレゼントをもらえるとすれば、歴史の皮肉でしょうが、オランダの子供はラッキーですね。

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それから、12月6日という日にちは、1月6日のエピファニアを連想させます。イタリアの子供たちは、伝統的に、この日に、魔女ベファナから、プレゼントをもらいます。エピファニアは東方の3人のマギ(賢者/博士)が、キリストを訪れ、贈り物を捧げ、礼拝した日です。3賢者はパルタザール(アフリカ系)、ガスパール(アジア系)、メルキオール(コーカサス系)と伝えられています。クリスマスに飾られるプレセピオ/プレゼペ/クレシュ(キリストの誕生を再現した人形飾り)でも、バルタザールは黒人の姿で現されます。プレゼントを携えてやって来る黒ピートや、シンタクラース一向は、何らかの関連性を連想させます。

また、Zwarte PietのPietはPeterの愛称で、元のギリシャ語/ラテン語表記はΠέτρος(Pétros)/Petrus、日本語ではペトロです。ペトロといえば、真っ先に思い浮かぶのが、最初の教皇、使徒ペトロです。現在のヴァチカンの大聖堂(Basilica Sancti Petri/Basilica Papale di San Pietro in Vaticano)は殉教した聖ペトロの墓の上に建てられたもので、サンピエトロ大聖堂という名称のように聖ペトロに献じられたものですが、Zwarte Pietは何らかの意味でヴァチカンとの関係性を示しているのかもしれませんね。

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オランダは、北部のプロテスタント カルヴァン派の商工業者が中心になって、カトリックの宗主国ハプスブルク・スペインと、16世紀後半から80年戦争と呼ばれる独立戦争を戦って独立しています。このときカトリックが多数を占めるベルギーとルクセンブルクは途中で脱落しました。そういう歴史的経緯があるので、聖人を認めないカルヴァン派が多数を占めているかと思うと、そうではなく、カトリックが最も多い宗派だということです。そうだとすれば、聖人崇敬が保たれている理由はわかります。事実、アムステルダム中央駅には、立派なカトリック・シント・ニコラース教会が聳えています。まあ、しかし、そんなことよりも、今や、シンタクロース祭は宗教儀礼に属することではなく、中世あるいはもっと昔から続く、文化や伝統あるいは習俗に属することなのでしょう。

前のアーティクルで、ホールンという小さな町にやって来た、シンタクラースの町中総出の熱狂的歓迎振りをお見せしましたが、アムステルダムなどの大都市では、シンタクラースは数百人のズワルト・ピートが乗った数十隻の大船団を率いてやって来ます。それを、市長を先頭に数十万の市民が熱狂して迎え、上陸後の白馬に乗ったパレードも、ものすごい人出です。こうしたことが、オランダ全土で、11月中旬から20日以上に亘って繰り広げられるようです。聖ニコラウスが海運や船乗り、さらに、アムステルダムや子供の守護聖人だとしても、この熱狂とエネルギーには驚きます。

ドイツではカトリックとプロテスタントは半々のようですが、聖人を認めているルター派がプロテスタントのマジョリティーのようです(プロテスタント諸宗派は聖人を認めない宗派が多い)。それで、聖ニコラウスへの崇敬が教派を問わず保たれているのでしょう。

オーストリアは中世以来のカトリックの守護者でした。神聖ローマ帝国―ハプスブルクのオーストリアハンガリー帝国と続く支配が、北はオランダ、ベルギーから南は北イタリアまで、東はルーマニア、ハンガリーからフランス東部までという中央ヨーロッパを占める広い範囲に、長い間、広がっていました。ハンガリーやチェコにも聖ニコラウスが現われるとすれば、この広大な地域全体に残る習慣なのかもしれません。その後の情報で、聖ニコラウスは、スイスやポーランド、ルーマニアにも、J.ジョイスが滞在した北イタリアのトリエステにも現れることがわかりました。

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フランス東部アルザス、ロレーヌ地域にも聖ニコラウスは Saint Nicolas(サン・ニコラ)としてやって来ます。しかし、従者はLe Père Fouettard(鞭打ちおじさん)という怖い名前で、写真のように、全身黒づくめで、中世の修道士か囚人のような格好をしています。一年間の行状の悪い子は鞭打たれるそうです(実際にはそんなことはないそうですが)。

前述したように、シンタクロース祭は、もはや、伝統文化や伝統習俗に属することなのでしょう。しかし、こうした伝統行事を生んだ古代の司教聖ニコラウスの伝説にこそ耳を傾けるべきでしょう。それは、愛と、奉仕と、分ち合いの精神の実践でした。こうした彼の実践行為への賞賛と共感が、この伝統行事の基盤であり、現代まで生き延びてきた理由だと思います。子供たちはプレゼントと添えられた詩を読んで、こうした精神を学んでゆくのだと思います。 人は与えられることで与えることを学び、愛されることで愛することを学ぶのだと思います。

☆☆☆ 聖ニコラウスとサンタクロースについて : バーバラ・クーニー作「クリスマス」を巡って ☆☆☆

引き続きVeneさんの解説とコメントです。今回は、12月8日と12月12日に投稿いただいたものですが、オランダ、ドイツ滞在中に出会った、シンタクラース祭やクリスマスが活き活きと語られています。聖ニコラウスはオランダ語ではSint Nicolaasですが、親しみを込めてSinterklaasと呼ばれています。今回は原文だけを掲載して、Veneさんの記憶が紡ぐ新たなコメントなどを期待し、私の言葉は次回に回すことといたしました。

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つづきましてサンタクロースについてのお話です。
ユールの祭りの頃に北欧神話の最高神オーディンが
人間の世界を歩き回ると考えられていたそうです。
長い髭の老人の姿で青いマントでやってきて
人々にほうびを与えたり罰を与えたりしたそうです。

そういった、良い子にご褒美を持ってくる役割が
オーディンから聖ニクラウスにかわっていったそうです。

サンタクロースの起源と言われるこの老人は
4世紀に実際に生きていた寛大なキリスト教の司教で
のちに子供を助ける守護聖人となった方です。
(アムステルダムや船員たちの守護聖人とも聞きました)

現在米国や日本でクリスマスに贈り物を持ってくるのが
サンタクロースです。トナカイの引くそりにのってやってきます。
それに対し聖ニコラウスは従者を従えて
12/6の聖ニコラウスの祝日に馬にまたがりやってきます。

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というわけで、オランダとドイツでは12/6には聖ニコラウス、
クリスマスにはサンタクロースがやってきます。
またドイツでは宗教改革で聖人が認められなくなってからプロテスタントの家庭では
バイナハトマン(ドイツのサンタクロース?)とクリストキント(幼いキリスト?)
なるものが、やってきて贈り物を渡すそうです。(私は見たことなかったですが。)

サンタクロースのほうはアメリカ商業主義の守り人状態な印象があり
クリスマスは家族で過ごしたり教会で祈ったりするほうに重きが置かれていたようで
オランダでもドイツでも彼を待ち望む雰囲気は少ないように私は感じました。
(贈り物は既に聖ニコラウスに頂いていますしね)

それに対し聖ニコラウスは圧倒的な存在感で熱狂的に歓待されていました。
特にオランダでは11月中頃に従者と共に船でオランダに到着する聖人を
現地市長や市民が迎えます。その様子はTV中継され新聞でも伝えられます。
そして12月6日の祝日までオランダ国内をめぐるのです。
従者は黒ピートと呼ばれて黒い顔をした男性や男の子がピエロみたいな姿で
従っています。聖ニコラウスと共にスペインから船でやってくるそうです。

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彼らが去ったのち、オランダでは厳かにクリスマスを過ごしていた印象です。
ドイツはクリスマス市が各地で行われていることもあり
聖ニクラウスが去ったのちも街並などは華やかです。
市場ではツリーのオーナメントなどでサンタクロースも売られています。
デパートではサンタクロースの格好でチラシを配る人もいます。
彼からキリスト教はあまり感じられません

司教の姿の聖ニコラウスはキリスト教が身近な国民にとっては
私の想像以上に親近感があるのでしょうか。
ただオランダ・ドイツでの経験は
カトリックとプロテスタントの違いを
(我々にはわかりにくいものの)わずかながら知る機会では
ありました。

オランダにもプロテスタントは多いと思いますが
クリストキントの話は聞いたことがなかったです。
聖ニコラウスを認めない人には出会いませんでした。
宗教というか信仰に必要かどうかわかりませんが
柔軟と言われるオランダの国民性も感じさせてくれた
聖ニコラウスでした。
(2009/12/8(火) 投稿)

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聖ニコラウスが訪れる国は、バーバラさんの「クリスマス」によると
オランダ、ベルギー、スイス、それにオーストリアやドイツの一部、
となっています。白い子馬にまたがりやってくるとされています。
(オランダでは先に書いたとおり、スペインから船でやってきます。
その後運河を利用したり地域によっては馬にのって国内をめぐっていました。)

先日友人と話している中で、なんとチェコとハンガリーにも
聖ニコラウスがやってくることがわかりました。
チェコ&ハンガリー帰りの友人によると、その訪れ方は
ドイツとほぼ同じで12月5日か6日に現れるのみとのこと。
チェコとハンガリーにはカトリックが多いのか、それとも
オーストリアハプスブルグ帝国の占領時代の名残りでしょうか。
そうなってくると、もしかしたらポーランドにも
聖ニコラウスが訪れていたりして?
ドイツ語圏(スイスのチューリッヒなども含めて)及び
そこの支配下にあった歴史のある国にやってくるのかな?

私と友人の間の限られた範囲だけの経験では、オランダだけ
その訪れ方と時期、そして従者の姿が他国と違います。

オランダでは黒ピートと呼ばれる、
顔を黒く塗った男性もしくは男の子がピエロのような出で立ちで従い
子供たちにお菓子を配ったりしています。
(悪い子はスペインに連れて行かれると
子供は大人に脅されていましたが
実際はピートは笑顔でクッキーなどを配っていました)

ドイツ他の国では、従者が黒塗りの顔の男性のみだったり
もしくは大変みすぼらしい姿の人だったり
従者そのものが存在しなかったり様々のようです。

またオランダだけ、船でスペインからやってくるのが謎です。
黒ピートを奴隷制度の名残り?などという人もいて
なかなか話題に出せませんでした。
スペインからの独立のこととか、なんだか複雑なのかと
勝手に妄想し逃げ腰でしたから。(反省)
(2009/12/12(土) 投稿)


Intocht van de Sint in Hoorn
北ホラント州のHoorn(ホールン)にスペインから到着するシンタクラースとズワルト・ピート達
Hoornはアムステルダムの北約35kmに位置し、人口7万人弱。
☆☆☆ クリスマスの起源と古代のお祭りについて : バーバラ・クーニー作「クリスマス」を巡って ☆☆☆

前回のアーティクル(12日)に引き続いて、Veneさんの解説とコメントです。以下に原文を掲載し、その後に、少し、私の言葉を置かせていただきます。

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Sacra Famiglia con san Giovanni Battista(1518~19 circa)
Antonio Allegri detto il Correggio (Correggio, agosto 1489 - Correggio, 5 marzo 1534)


イエス様がお生まれになるずっと前から
欧州各地では12月に様々なお祭りが行われていたそうです。

代表的なものが冬至のお祭りだそうです。
長い夜が終わり昼が長くなり始めるのを、太陽の復活として祝いました。
北欧ではユールと呼ばれていたそうです。

また古代ローマ人たちもサトゥルナーリア祭という祭りをしていました。
この祭りは古代ローマの農耕の神サトゥルヌスにちなみ、
太陽の復活を祝い、豊かな実りを願ったそうです。
この祭りのときには、人々は祭りの王を選び、この王のもとで身分に関係なく
仮装したり飲んで食べて歌い踊り、学校も仕事も休んだそうです。

キリスト教の信者もそうでない人たちもこれらの祭りを楽しんでいましたが
教会はこれらの習慣を認めようとはしなかったそうです。
信者の多くはそれでも今までのお祭りを楽しみたいと願っていたそうですが。。
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イエス様がお生まれになって300年以上たったのちようやく、
ほとんどのキリスト教会がイエス様の誕生日を
昔からの祭りと同じ12月に祝うようになったそうです。
このようにして、昔からの楽しい習慣の多くが
クリスマスの祭りの一部となっていったそうです。

日本では冬至というと、ゆず湯に入り
「寒い中でも健康で過ごせるように」と祈るくらいですが
日が長くなるのを太陽の復活として祝ってしまうという
ヨーロッパの人々の気持ちは、経験としてよくわかる気がします。
ヨーロッパの冬は、長く暗く寂しく辛い、そして寒い・・印象です。
(特に空模様のどんより感は絶望的です)

ヨーロッパの人のクリスマスシーズンのウキウキ感は
冬至も少しは意識してのものなのかな?(実感はなかったですが)

こんなふうに考えると、日本では何故クリスマスシーズンに
みんながワクワク浮かれてしまうのでしょうね?(私だけかな?)
自戒も込めて・・・。わけもわからず浮かれてました。
娘二人はクリスマスを彼女たちなりに考えてくれているようで
嬉しいです。
(2009/12/2(水) 投稿)


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クリスマスが古代から伝わる冬至祭と関係があるのは確かでしょうね。四季、或いは夏冬がある地域の人間集団にとって、冬至、夏至、春分、秋分が大きな意味を持っていたのは想像に難くありません。太古の時代から、季節に従って生活を用意しなければ、生き残ることすら難しかったでしょうから。ストーンヘンジやストーンサークルはそうしたことを語ってくれます。日本でも石器時代のストーンサークルがたくさん発掘されています。

とりわけ、すべてが衰えて死に向う、長い暗闇と、凍てつく酷寒と、厳しい飢餓に直面する冬の極には、すべての再生と、繁栄と隆盛を願わずにはいられなかったと思います。こうして、何処でも、冬至は太陽の新生、或いは、復活を願い、盛大に祝われたのでしょうね。

ここで述べられているユールやサトゥルナーリアも、そうした歴史的背景を持つお祭りのひとつだったのでしょう。それから、ケルトの冬至祭や紀元前1世紀から5世紀にかけて、ローマ帝国内で隆盛を極めたミトラ(ス)教の冬至祭りもクリスマスの成立と関連があるのではないかと思います。

ミトラ(ス)教は、もとは古代ペルシャの宗教で、太陽神ミトラを主神とする宗教ですが、詳しいことはわかりません。この宗教は、アレクサンドロスの遠征によってできたヘレニズムの大帝国に広がり、地中海世界までやって来て、変化しながら、発展していったようです。

この太陽神は、ヘレニズム社会ではΜιθρα (Mithra)、ローマ社会ではMithrasと呼ばれましたが、もともとは、古代アーリア人の太陽神で、イランやインドでMitraと呼ばれ、インドではMaitreyaとしても親しまれていました。maitreya(マイトレィア)は弥勒菩薩と漢訳され、古代の日本までやって来ました。ミトラ(ス)教は消滅してしまいましたが、弥勒信仰は、今でも生き残り、日本文化のあらゆる面に深い影響と、痕跡を残していますね。

話は少しそれましたが、こうして見ると、文化の伝播というか宗教の伝播というか、とても興味深いですね。そして、遠く離れているように見えても、実は、繋がっていることがたくさんあるようです。古代においても、文化は移動し、世界は以外に狭かったと言えるのではないかと思います。

西では、セムと呼ばれる人たちの歴史的体験や世界観が背景にある信仰が、地中海からヨーロッパ世界に伝播し、キリスト教としてアーリアの人たちに定着し、他方、東では、アーリアの人たちの神話と世界観から生まれた仏教が日本に根付いたわけです。このように、歴史には、常に、深いパラドクスやアイロニーが、横たわっていることを忘れてはならないと思います。

日本人の中には、伝統的に、仏教は日本の宗教で、キリスト教は欧米の宗教だと思っている人が多くて、閉口します。伝統や文化についても、ステレオタイプな概念を鵜呑みにするのは禁物です。すべてに疑問符をつけ、調べ、自分で考える方法論を身に付けることが必要です。教育の目的もそうあるべきだと思います。

さて、クリスマスは、こうしたローマ領内各地の冬至祭りを飲み込んで成立したわけです。実際、ナザレのイエスの誕生日は、聖書の何処にも記されておりませんし、伝承も残されていません。そして、ベツレヘム周辺の冬は寒く、羊の放牧はしないそうですから、羊飼いの崇敬を伝えるルカの福音書からすれば、この時期とは言えないようです。

それではなぜクリスマスなのかと問われそうですが、私は、クリスマスは、キリスト・イエスの誕生の意味を問い直し、心に刻みなおして、神の大いなる贈り物に喜び、感謝し、神を称える日だと思っています。ですから、それにふさわしい日であればいつでも良いと思いますが、この冬至の時期ほどふさわしい日はないと思います。太陽は光を増し、日は次第に長くなり、もの皆目覚める光と命の季節への予感と希望に、満たされることができるからです。 さらに、古代の冬至祭が、クリスマスとして再生し、1700年に渡って連綿と祝われ続け、今や世界中の人々の祝祭となっていることに、計り知れない神の叡智と、徴を見る思いがします。