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〔アウシュヴィツ第1絶滅収容所 ユネスコの世界遺産として登録され保存されています。アウシュヴィツ収容所は、収容者の増大と共に、周辺部に拡大して、アウシュヴィツ第2‐ビルケナウ、アウシュヴィツ第3‐モノヴィツが造られました〕


現状を眺め、歴史を顧みれば、戦争がない時代はありませんでした。戦争は、人間にとって、通常の意識と行動様式がもたらすものなのでしょう。そこに、人間の根源的な罪の深さがあると思います。気を付けなければ誰もが落ちてゆく深淵です。戦争や虐殺を悪として断罪して、ピラトのように己の手を洗う(マタイ 27:24)だけでは、デススパイラルの連鎖を断ち切ることはできません。なぜなら、この深淵は誰の意識の根底にも存在し、その意味では善悪を超越しているからです。

私は、ヒトラーも戦前の日本の指導者も、人間たちの意識が造りだす波をサーフし、自らの野望や価値観を実現しようとした、いわば普通の人で、特別な悪人だとは思っていません。だからこそよけいに、彼らを登場させた,あるいは支持した状況を含めた、人間の持つ根源的な闇と深淵について考えなければならないと思っています。

イメージ 2〔アウシュヴィツ第2‐ビルケナウ 老婦人と子供たちはどこへ向うのか?絶滅収容所では、役に立たない老人や子供はすぐにガス室へ運ばれたという〕


人間は権力の王杖を手にすると振り上げたくなるのでしょうか。その杖には、与えた者と、与えられた者の、闇と深淵のデススパイラルが詰まっているのも考えずに。そしてそれがとてつもない悲劇を惹き起こしているのですから、人間の負の深淵は、どうしたら克服できるのか考えなければなりません。

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〔アウシュヴィツ第2‐ビルケナウ 有刺鉄線と高圧電流の向こうは、2度と戻れない絶滅収容所です〕


アンネ フランクといえばオランダのWesterbork/ウェスタボルクキャンプが思い浮かびます。一家が最初に収容された所です。ここのキャンプは皮肉にも、亡命ユダヤ人を収容する為に、オランダ政府によって創られました。その後、ドイツのオランダ占領に伴い、ポーランド等の絶滅収容所に送る前の中継収容所になりました。収容者総数107,000人、生還したものは僅か5,000人でした。アンネもここから、アウシュヴィツを経て、ベルゲンベルゼン収容所へ運ばれ、1945年の3月の初め頃、チフスにより死亡したと言われています。そこでは、餓死や病死による最終処分が行われていました。地獄のような劣悪過酷な環境下に置かれて、虐殺されたと言った方が正確でしょう。

あれから65年、1月27日(1945年アウシュヴィツ強制収容所が開放された日)には、ヨーロッパ中で追悼式典が催されました。あの悲劇と罪を忘れないために。アンネの住んでいたオランダでも、大掛かりな追悼式典が催されたようです。学校ではしばらく前から、ホロコーストについての様々な課題を学習、討論し、当日は各校が分け合って、オランダ国内の強制収容所から帰らなかった犠牲者の名前が、一人一人読み上げられたそうです。ウェスタボルクキャンプ址の周辺では、エディト、マルゴト、アンネのフランク一家の名前も読み上げられたはずです。

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〔ウェスタボルクキャンプ 生還することのなかった犠牲者を悼む102,000人のモニュメント〕


戦争やホロコーストの悲惨を繰り返さない為には、あるいは、今も行われている戦争や虐殺を止めさせるためには、こうした教育の積み重ねこそ必要だと思います。教育は椅子取りゲーム、あるいはそれを教える場であってはなりません。共に人間として生きるためにはどうしたら良いのか、どのような社会を目指すべきなのかというテーゼが最初に置かれなければならないと思います。全ての方法論も科学技術もそこから始まり、そこに回帰しなければならないと思います。

さて、全世界のキリスト教徒は20億人を越えると思います。人類の3人に1人はキリスト教徒です。カトリックは12億とも13億とも言われています。即ちごく普通の人々で、残念ながら、皆が敬虔、誠実で慈しみ深いわけではありません。日本では45万人程の圧倒的なマイノリティーですから、特殊視されるようですが、例えば、イタリアでは、ほとんどがカトリックですから、あたりまえの人々です。マフィアも泥棒も殺人者もカトリックです。

だから、キリスト教がマジョリティーの地域では、聖書や教会の教えが、思考や行動の基盤として存在しても、そう簡単に、イエスの教えと、現実の人々の行動が結び付いているわけではありません。

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〔ベルゲンベルゼン絶滅収容所 マルゴトとアンネ姉妹の追悼の碑 今でも、追悼の言葉を残してゆく人々が絶えません〕







私たちは、いつも死者たちのことを考え生者の世界を振り向かなければなりません。犠牲になったっ数千万の人々の命の尊厳を思うならば―それは私たちのように、喜びも悲しみも、夢も希望もあった命です―石に齧りついても、これ以上の惨劇は阻止しなければなりません。亡くなった時、アンネはわずか15才、姉のマルゴは19歳になったばかりでした。もう、死と涙に溢れた世界はいりません。こんな現実にNON! を叫ぶところから始めようではありませんか。

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〔アウシュヴィツ第2‐ビルケナウの正門 このレールで大勢の犠牲者が運ばれました。追悼の言葉が書かれた木製のプラークで埋め尽くされています〕


                                                                                          
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そのエルサレムの新市街のヘルチェルの丘に、ヤド バシェム(יד ושם‎ ;Yad Vashem/yad=memorial・va=and・shem=name)というホロコーストの追悼館が建っています。その〈正義の人の庭園〉の〈名誉の壁〉に〈諸国民の中の正義の人〉として、1人の日本人の名が刻まれています。その人の名は杉原 千畝〔1900年/明治33年1月1日~1986年/昭和61年7月31日〕第二次世界大戦中にリトアニアの在カウナス領事館・領事代理だった人です。

1940年ナチスドイツによってポーランドを追われ、今また、リトアニアを併合したソヴィエトに迫害されようとしたユダヤ人に、日本政府の方針と外務省の命令に背き、命のためのビザを発行し続けた人です。

彼はソヴィエトによる領事館閉鎖まで、寝る間も惜しんで、ビザを発行し続けました。こうして、6000人を越えるユダヤ人が国外に脱出して生き長らえることができたのです。

戦後、ソヴィエト抑留を経て、1947年に帰国しましたが、命令に背いた責任を問われて、もう君のポストはないといわれたそうです。ようやく、過酷な虜囚生活から開放され、帰還したら、祖国からも切り捨てられ追放された訳で、心中察するに余りあります。

しかも、敗戦後の焼け野原と餓えと混乱の時代に、50も間近な年齢だったわけで、極めて厳しい現実に直面していたと思います。さらに、外務省は、ユダヤ人協会からの問い合わせ対して、「日本外務省にはSempo Sugiharaという外交官は過去においても現在においても存在しない」と回答していたそうです。

千畝はちうねと読むそうですが、その発音の難しさから、せんぽとも名のっていたそうです。1940年のリトアニアの在カウナス領事館の外交官といえば、人物の特定は簡単にできたはずで、問い合わせの人物が誰かはわかっていたはずです。組織に背くものは徹底的に抹殺する日本の行政機関、官僚の変わらざる権威主義と悪意には怒りを感じます。

ヘルチェルの丘ヤド バシェムからのエルサレムヴァリーの眺望
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1985年、その杉原の人間の尊厳を守った救済行為にイスラエル政府は《חסידי אומות העולם;Khasidei Umot HaOlam/The honor of The Righteous Among the Nations/諸国民の中の正義の人の栄誉》を以て遇しました。驚いたことに、彼とその子孫には永遠にイスラエルの市民権が与えられるということです。それは、ユダヤ人が、改宗しない異教徒(杉原はクリスチャン)を、家族の一員として、それも最大の歓迎と喜びをもって、迎え入れたということで、最高、最大の敬意を捧げているわけです。

ヤド バシェムの意味については先に注記しましたが、そのYad Vashem=Memorial and Nameはイザヤ書56:5に由来します。"わたしは彼らのために、とこしえの名を与え/息子、娘を持つにまさる記念の名を/わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない。"

この時、彼は病状の悪化の為、代わりに妻と子息が、エルサレムで栄誉を受けました。翌1986年7月31日、日本政府の名誉回復を待たずに、86年の波乱の生涯を閉じています。海外では、彼の名声は日に日に高まって行きましたが、本国では、日本政府の無視もあって、ほとんど知られていませんでした。彼の葬儀に、駐日イスラエル大使や世界中からユダヤ人の大使節団が参列して、隣人たちは、初めて彼の偉大さを知ったということです。

The Hall of Names,Yad Vashem
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死後も名声は高まる一方で、彼に関する出版物も多数に上り、あちらこちらで、叙勲や記念碑が建てられ、その名は、公園やストリートにつけられ、ついには、小惑星の名前にもなりました。

こうした評価とは対照的に、彼を追放し、抹殺さえしようとした外務省は、なおも、知らん振りを続けましたが、ついに、抗しきれずに、2000年10月10日、嫌々ながら、外交史料館に「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて」などと書かれた顕彰版を設置して、その除幕式を、外務大臣、イスラエル、リトアニア両代理大使、杉原夫人らの出席のもとに行い、名誉回復をしています。

死後14年、追放から53年の歳月が流れていました。あまりにも遅く、あまりにも愚かな対応だと思います。行政組織が国民の為ではなく、自らの組織の為だけに働き、機能している証左です。今のままでは、彼らは国民の財産や血税を食い物にしている盗賊集団に過ぎません。まともな外交など期待するほうが間違いだと思います。

The Eternal Flame in The Hall of Remembrance,Yad Vashem
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Levine, Hillel著 In Search of Sugihara(1996)から、杉原の言葉を引いておきます。これは、イスラエルから栄誉を受けた同じ年、すなわち死の前年に杉原の自宅で、Levineに語ったとされるものです。全体として抑制された言い方ですが〝I felt it silly to deal with them/彼ら(本省)を相手にするのはばかげた事だと感じた"という言葉のなかに、彼の絶望感と怒りが詰まっていると思います。sillyという言葉は、ばかな、間抜けなという意味ですが、最低の軽蔑を含んだ言葉です。

"People in Tokyo were not united. I felt it silly to deal with them. So, I made up my mind not to wait for their reply. I knew that somebody would surely complain about me in the future. But, I myself thought this would be the right thing to do. There is nothing wrong in saving many people's lives....The spirit of humanity, philanthropy...neighborly friendship...with this spirit, I ventured to do what I did, confronting this most difficult situation---and because of this reason, I went ahead with redoubled courage."
〔Levine, Hillel:In Search of Sugihara The Elusive Japanese Diplomat Who Risked His Life to Rescue 10,000 Jews from the Holocaust (1996)p. 259〕

正教会(Orthodox Church)の敬虔なクリスチャンであった杉原 千畝は、また、日本語で次のように語っています。
「私のしたことは外交官としては間違っていたかもしれないが、人間としては当然のこと。私には彼らを見殺しにすることはできなかった 」
「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」 〔杉原幸子:新版 六千人の命のビザ(1990)朝日ソノラマ ISBN 425703291X〕

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今も、世界での杉原千畝への敬愛の念は、広がり、高まる一方です。しかし、未だに、日本では、記憶の埒外なのか、無視されているのか、ほとんど語り伝えられることがないように思います。杉原 千畝のなしたことは、ノーベル賞受賞を遥かに凌ぐような賞賛に値することなのに―日本人の希望であるばかりか、世界の光であるはずなのに―どうしたことでしょうか?不思議で不条理で理解不能なことに思われます。この事態が国に叛いた人間に対する、日本人の心情に由来するものでないことを願っています。

彼は、積極的に救済の手を差し伸べたわけではありません。外交官の権限として持っていた日本通過ビザを発行し続けたに過ぎません。それは、彼自身が語ったように「人間としては当然のこと」であり、小さなことかもしれません。

しかしそれすら、国家の命令に背いて、たった一人自分自身の決断で、命がけで行わなければならなかったのです。そんな歴史が繰り返されないことを祈ります。そしてまた、今もなお、平和と命に影を投げかける人々や国々が、人間としての尊厳と義務を回復するように祈ります。

隣人の命を救うのは人間の義務です。その義務を果たしたことが間違いで、それを罰する政府があるとすれば、極悪です。杉原の悲劇は人間としての義務に背く価値観を原理原則とする国の国民であり、官僚であったことです。

しかし、彼は、自分を犠牲にしても、人間としての義務を貫くことを決意し、外交官として行使できる権限を、人命の抹殺や人権の抑圧から、人間としての基本的な義務としての愛と救済の行為に回復させたのです。このことは、人類としての記憶の中に深く刻み込まれなければならないと思います。杉原 千畝の中に人類の希望と救いの光を、伝えられるべき大いなる愛の炎を見るのは、私だけではないと思います。


オリーブ山からのエルサレムの眺望:手前から、神殿の丘の壁~金色の岩のドーム~旧市街~新市街
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エルサレムのことを思うと、いつもこの歌"Inch'Allah" が聞こえてきます。そのコンセプトの重さと、象徴的で挑発的な言葉の使い方と、美しい音楽性.....石ころだらけのエルサレムの丘に咲きみだれるコクリコの花ように、聞くものの心を惹きつけるようです。原語はフランス語ですが、一番だけ引用し、いつものように、なるべく日本語的にならないように、直訳調で訳してみました。著作権の問題が生じると思われますので、2番3番は原文に沿った意味を載せました。

エルサレムからエリコへのローマ時代の道
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1)
J'ai vu l'orient dans son écrin
avec la lune pour bannière
Et je comptais en un quatrain
chanter au monde sa lumière

私は宝石箱の中にオリエントを見た
旗のための月と共に
そしてそこから、キャトラン(4行詩)で
その光を世界に歌おうと思った

Mais quand j'ai vu Jérusalem,
coquelicot sur un rocher,
J'ai entendu un requiem,
quand sur lui, je me suis penché.

だが、エルサレムで、
ある岩の上のコクリコを見た時
私はレクイエムを聴いた
その花の上に身をかがめた時に

Ne vois-tu pas, humble chapelle,
toi qui murmures "paix sur la terre",
Que les oiseaux cachent de leurs ailes
ces lettres de feu: "Danger frontière!"

慎ましやか礼拝堂よ 知らないのか
"地に安らぎを"とつぶやくおまえよ
鳥たちがその翼でおおっている
"国境危険"の火の文字を

Le chemin mène à la fontaine.
Tu voudrais bien remplir ton seau.
Arrête-toi, Marie-Madeleine:
pour eux, ton corps ne vaut pas l'eau.
Inch'Allah Inch'Allah Inch'Allah Inch'Allah

その道は泉へと導く
おまえのバケツをいっぱいに満たしたいと思っても
お止めなさい マリーマドレーヌよ 
彼らにとって、おまえの体は水に値しない
インシャラ ~ ~ ~  (神[アッラー]が望むならば)

2)オリーヴの樹は 囚われ人として 敵地の 瓦礫の下に眠る やさしい妻 愛する者の 影を悼み 嘆き悲しむ
鉄条網の棘の上で 蝶が薔薇を狙う 人々は愚かに 私を拒絶するだろう もし私がひかなければ
地獄の神か天の神か おまえは良い所にしかいないらしい このイスラエルの大地には 震えている子供たちがいる
Inch'Allah Inch'Allah Inch'Allah Inch'Allah

3)女たちは暴風雨に倒れる やがて血は洗われる 道は勇気で造られる 1人の女が1つの舗石
そうさ、私は、エルサレムで 岩の上のコクリコを見た その花の上に身を屈める時 私はいつもそのレクイエムを聴く
大理石の墓を持たない 600万の魂へのレクイエム その魂は 汚された砂にもかかわらず 600万の樹を茂らせる
Inch'Allah Inch'Allah Inch'Allah Inch'Allah


今回のTubeはカロジェロとのデュオです。lyricsが少し変更されています。これは、パレスチナという微妙な問題のもたらす批判に対応したものですが、無理をしているので、とてもぎこちなくなってしまって、オリジナルの言葉の音楽性、光と影の華麗なコントラスト、強いメッセージ性などを損なっているように思います。ただ、エルサレムのスライドショーが見られるので選びました。私が訳したのはオリジナルリリクスです。

Inch'Allah Adamo & Calogero


*≪Le Pays des Mythes 2 part two≫も1ページに入らなくなりましたので、2分割されることになりました。即ち≪Le Pays des Mythes 2≫は、全体として3分割になり、part threeまで続きます。