
私の方は、ようやく、先週、コンピューターを修理に出しました。時間がかかるようです。
それまでは、化石コンピューターを使います。
これは難もので、東海道53次並みのスピードです。その上しょっちゅうフリーズします。
投稿するのも一苦労で、時間もかかります。
でも、Blogは見られますので、フランクルさんに限らず、伝えたいことをmsgしてくれたらうれしいです。
日本にラテン語教えている中等教育の学校があるのはうれしいですね。
最初の1歩として、教える側は、教える根拠、理由を明示し、
学ぶ側の各人に、なぜラテン語を学ぶのかを考えて自己了解してもらうことが大切だと思います。
それから、カトリック系の学校は設立母体の修道会によって運営されています。
何百もある夫々の修道会は、ローマ教皇に属し、プリンシプルやコンセプトは同じですが、
政策や方針はかなり違います。ですから、学校のあり方やカリキュラムも違ってくると思います。
親にとって、子供は自己を秘めた他者、或は他者を秘めた自己に過ぎないかもしれません。
他方、子供にとっては、自己とは明確に区別される親という他者だと思います。
この意識のずれが、親子問題の根源にあると思います。
しかし、こうした意識のずれは、自己愛が広がり、転化してゆくきっかけにもなります。
親にとって、子供は自己と他者の境界にあるわけで、子供の自立性を認めることによって、
自己愛の境界を越えて、隣人愛-他者愛への世界が開ける場合も少なくないと思います。
こうして人は、エロスからフィリアへ、そして、アガペの実在性を受け止められるようになれるのかもしれません。
フランクルさんとの出会いは、アンネ フランクの少し後で、10代の前半だと思います。
もうすっかり忘れてしまいましたが、彼が残した痕跡は、私の中にくっきりと刻まれているようです。
本当に、偉大な方だと思います。
本をどのように読むかは、読む人の自由です。その自由を侵害するつもりは毛頭もありませんが、
Dubliners の場合、敢えて、The Deadから読むことをお勧めします。
カリタス=チャリティーで忘れてはならないことは、苦しんでいる人と苦しみを分かち合うことによって、その苦痛を癒し、取り去る精神だと思います。
マザーテレサはイエスの教えに忠実であろうとした方で、神の愛の御恵みがもたらすCompassionこそがその精神だと思います。
Compassionについては、書庫≪Au Forum≫にアーティクルがあります。
↓
http://blogs.yahoo.co.jp/raticani/18356658.html
Marianne先生の「幸せの1割の寄付」は聖書に連綿と流れる「十分の一の捧げもの」から由来しているように思います。
Marianne先生の精神も、聖書やカトリック文化に深く根ざしているのではないのでしょうか。
引用;旧約聖書
創世 28:22 わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。
レビ記 27:30 土地から取れる収穫量の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属す。
申命記 14:22 あなたは、毎年、畑に種を蒔いて得る収穫物の中から、必ず十分の一を取り分けねばならない。
申命記 26:12 十分の一の納期である三年目ごとに、収穫物の十分の一を全部納め終わり、レビ人、寄留者、孤児、寡婦に施し、彼らが町の中でそれを食べて満ち足りたとき、
マラキ 3:10 十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと/万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために/天の窓を開き/祝福を限りなく注ぐであろう。
引用;新約聖書
マタイ 23:23 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。
ルカ 18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ヘブル 7:2 アブラハムは、メルキゼデクにすべてのものの十分の一を分け与えました。メルキゼデクという名の意味は、まず「義の王」、次に「サレムの王」、つまり「平和の王」です。

ついでに、他のも載せておくよ。夏になると西アジアからヨーロッパにかけての草原は、ご覧のように、美しく装う。











