Gospel Diary 『奇跡の時間』2019 02 14 Thursday
最近、雪も降り東京は寒い日が続いていますが、風邪気味で体調があまりよくない日のことでした。「さすがに今日くらいは仕事もそこそこに早く家に帰りたいな。」などと思って夕方の清掃バイトをしていると、先週に続き、再び主がはっきりと語られました。『何を為すかではなく、どの様にそれを為すかだ。』と、すかさず僕は聞き返しました。「主よ、それはどういう意味ですか?」しかし返事はありませんでした。その後、働きながら「主はもしかして僕の心の持ち方を言っておられるのかな?」などと考え、「よし、心から喜んで働こう!」と気持ちを切り替えました。子供たちの机をひとつひとつタオルで拭き、机をずらしてはゴミを履き、床のシミにはモップをかけ、結局いつもより綺麗にしっかりと作業が進んでいました。するとまた主が語りました。『時間は気にしなくて良い。時間は私の手の中にあるのだから。』神様は帰りが遅くなる事を心配している僕の心をお見通し(当たり前ですが)だっだのです。僕は我に返りました。「あっ、これは礼拝だ!」実に僕は普通なら到底できないであろう、日に5時間以上の礼拝を毎晩している事がわかりました。そのために主はわざわざ『ダブルワーク』という「恵み」を僕に下さったのです。そうなのです、夕方この学校は、この場所は、僕にとって平日の礼拝堂なのでした。
さてこの日、僕を礼拝から遠ざけていたものの正体はなんだったのでしょう?それはズバリ『自己中心』という罪でした。僕はこの学校の子供達や先生たちの事より自分が楽できる事を優先しようとしていたのです。「今日くらいは早く終わってもいいだろう?」しかしズルをしても、神を信じるが故に、そこから生まれるものはただ罪悪感だった。そしてそれこそが自分を余計疲れさせている正体だと、そう神様に教えられました。だけどこの自己中心から神中心にシフトしたとき全ては変わりました。頭に手を当てて『イエスの御名によって命じる、痛みよ、頭から去れ!』と言い放つと、すぐに癒されました。また朝からずっと鼻の先にまるで見えないオデキがあるみたいで、触ると激痛が走っていました。この部分にもそっと手を当てて痛みに去るように命じたら、やはり癒されました。この時点で僕はすでに時間の経過など忘れていました。気がつくと一人一人の子供達の名前が書いてある机に向かい彼らの救いを祈っていました。これらはまさに神中心の恩恵であり、真実イエスキリストの愛と恵みは驚くべきものだと再確認できました。そして仕事が終わったのは23時半。結局いつもと変わらぬ時間に仕事が終わったのです。「ああ,Thank you Jesus ! 時間はほんとにあなたの手の中にありました!」最後の幼稚園の3教室は、なんといつもあるたくさんのイスが全てなくなっていて作業が早かったです。多分、明日何かの行事でもあるのでしょう?しかしこれも主の計らいだと信じます。
仕事が終わり、帰りにファーストフード店でご飯を食べました。これは妻が寝ているのに、リビングでゴソゴソ音を立てて食べるのは彼女の睡眠の邪魔になると思ったからです。また帰宅後、ゆっくりとシャワーしました。こうした方が慌てて寝るよりも自分の体に益となると判断しました。これは睡眠時間も主の手の中にあると思ったからです。そして朝になると目覚めが良かった。まさに神が睡眠時間をその手で引き伸ばしてくださった様でした!聖霊様が僕の内に働かれていることがわかりました。だってやる事為す事全て賢い選択の連続だったから。神様と一緒に過ごす時間イコール奇跡の時間です。前回主が僕に言われた言葉を思い出しました。御国を求めるなら必要が与えられるというイエス様の約束を。多くの人がこのような神様との関係を持たれることを強く望む自分であります。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書 6:33)
この日、早く仕事をして家に帰ることが御心ではなかった。心に平安がなかったからです。早く帰るなと言っているのではありません。そう神が言われるならばそうするべきです。『何を為すかでなく、いかにそれを為すか』実に深い主のアドバイスでした。僕にはこれからも目の前に二つの道が現われるでしょう。自己中心(今回で言えば適当に働き早く帰ること)と神様中心の選択。自分の喜びではなく主が嬉しく思われること選び取るとき、僕は鬱からも心配からも罪悪感からも自由になれるとわかりました。いや肉体の癒しでさえ起きるのだと!これからも神様が喜ぶ事を選んで行きたい。主の喜びはあなた方の力です。(ネヘミヤ書 8:10抜粋)たとえ辛い状況であっても、そこで神様を見出すなら、その時がそのまま『奇跡の時間』に変わるのだから。
2019 02 14 Thu
Yoshiaki