ピントがあってないけど、これ、10年前の鳥万一階の写真。

 

2014年10月27日午後7時6分。

 

 

 

18時47分撮影。

 

これ・・・たぶんサービスですね。

 

200円です。

 

 

10年前のサービスはかなり充実していました。

 

 

 

イカの丸焼き。

 

 

この写真は数年後に撮影したものだけれどもいか丸焼は350円。

 

だから350円だったのでしょう。

 

 

10年前の僕は1階が好きで1階で飲んでました。

 

 

このブログの2014年10月アップの日記を見ると鳥万本店でこうして飲んだというものはなかったです。

 

だから10年前のこの日のことをアップします。

 

 

 

 

 

 

 

初めて鳥万に行ったのはいつだったのか?

 

 

このブログを開設した2009年より前に<あうるすぽっと通信>というブログをやっていて、あの時、公式記録で

参加予定だった親友のハタノ氏は末期ガンだったのに自覚がなかったのです。

 

2005年にハタノ氏は船橋の味中味での貸し切りの宴会に来てくれてカラオケを熱唱。

 

2005年前にも一緒に船橋で飲んでいました。

 

2005年はまだこのブログを開設しておらず。

 

そしてそのどれくらい前であったのか?

 

僕はすでに鳥万を知っていてあるときハタノ氏を誘って鳥万に行ったのです。

 

だから2005年よりもずっと前の話しです。

 

その頃の僕は鳥万は焼き鳥屋だと思っていてやきとりばかり食べていたのです。

 

二人で鳥万に行くと3階に案内されたような記憶です。

 

もしかすると4階だったのか・・・・

 

階段に近いテーブルでした。

 

 

自分は焼き鳥屋だと思っていたからものすごい数のやきとりだけを注文。

 

 

するとハタノ氏は・・・おとなしい性格で静かな人だったので・・・・小さな声で言いました。

 

 

「なるけさん、刺身もたのみましょうよ」

 

 

もちろんOK。

 

実は鳥万の刺身はその日の買い付けで新鮮であり美味なのです・

 

 

 

あの時、僕たちはなにを話したのか?

 

なんにも憶えてないんです・・・・

 

 

親友と言える友人は何人もいるわけでもなく。

 

 

彼は製本屋の社長でした。

 

しかし製本屋は火災となり彼は一文無しになったのです。

 

「あうるすぽっと通信」の頃は一文無しを脱し、普通にもどりつつあった頃だと思います。

 

 

 

彼と出会ったのは平成元年。

 

遠い遠い昔です。

 

 

長いつきあいでした。

 

日韓演劇フェスの総合記録スタッフとして彼は頑張るはずでした。

 

 

しかし腰にコルセットをしていて腰の痛みは製本屋が焼けてしまい・・・仕分けのアルバイトをしていて・・・

それが原因と思い込んでいたのだけれども・・・そうではなく癌が転移して腰にまでいってしまったからだったみたいです。

 

 

 

彼は僕よりどのくらいだろう・・・4~5歳年齢は上でした。

 

でも自分は見下すかのように呼びつけにしたりふざけていました。

 

一緒に秩父まで旅行に行ったこともありました。

 

 

いい人はやはくに死んでしまいます。

 

 

自分は言い訳だとは思うのだけれどもともかく忙しくて彼の最後をみとらなかったです。

 

心配していて病院の彼には電話はしていました。

 

いつも言うんです。

 

 

「なるけさん、大丈夫、全然大丈夫なので元気になったらまた会おう」

 

 

いつも快方に向かっていると言うのです。

 

 

でもいつまでたっても退院しない・・・・

 

 

その頃に電話して見舞いに行こうかと言うと少しトーンダウンした声で

 

見舞いに来てもらいたいと言った。

 

 

僕に心配させてはいけないとずっとウソを言っていて大丈夫だと・・・

 

 

でももうダメで死ぬとわかったときに最後に僕に会いたかったのだと思う。

 

僕は忙しかったし見舞いにはいかなかった。

 

 

結局、電話で話しをしたのが最後だった。

それから僕は自分をせめるということはなかったのだけれども、ずっとミサのときにロザリオを握り

かならずハタノのことを祈っている。

 

 

鳥万に行くと・・・たまにだけれども、彼と飲んだことを思い出す。

 

 

ハタノ・・・どのみち僕たちは死ぬ(笑)

 

天国ではいつものように飲みかわそう。

 

あれはほんと酒が好きな男だった。

 

は、は、は、は(笑)

 

話しがとんでもない方向へと暴走してしまった。

 

いやいや、最後の写真について書くはずだった。

 

 

一階の会計はいつもキワさんだった。

 

1964年の東京オリンピックの年に鳥万に就職したキワさんだ。

 

実はその数年後に僕たち家族は蒲田へと移転した。

 

そして小学生の僕は学友と鳥万のあたりで遊んでいたのである。

 

そのときキワさんは20代でお店の看板娘だったことだろう。

 

2014年のこの日もキワさんは一階のレジ担当。

 

ほんとうにみんなから愛され、声をかけられ、声をかけられるとなにがし返すといった鳥万1階の風景だった。

 

僕もどれだけキワさんに声をかけさせていただいたことか・・・・

 

 

そんなキワさんも2回目の東京オリンピックまでは鳥万に勤め続けることはできず天国へと召されたそうだ。

 

鳥万にはハタノの思い出やキワさんの思い出がつまっている。

 

また今週の土曜日には鳥万に行く。