法典の湯には14時すぎに着いた。
カトリック関口教会は朝8時と朝10時のミサがあるので朝8時のミサにあずかれば法典の湯にもそれだけ長くいられたわけだけど、母が腰を悪くしていたしこの日は母の日でもあったから早々に家を出るということは慎んだ。
母の腰の状態はよくなっていたのでカテドラルのミサに行くと言って8時半に新狭山を出たのである。
1996年4月の復活徹夜祭で僕は洗礼を受けたので2年後は受洗30周年ということになる。
カトリックの洗礼を受けて28年間、教会から離れることもなく席をおいている関口教会と埼玉に移転してからは地元の
教会に毎日曜日ミサにあずかっている。
28年という年月はそれなりに長い年月である。
僕たちは1995年に関口教会のキリスト教入門講座を受講し1年後の復活祭に洗礼を受けたわけだけれども、
28年前に僕たちにキリスト教を教えてくれたシスター中島は今もお元気で日曜日のミサ後に入門講座を担当されている。
この日5月12日が入門講座スタートの日のようだった。
28年前のクラスの仲間たちはもう教会では見かけなくなった。
結婚してどこかほかの地に行ったという人もいるだろう。
クラスの仲間で友達になった人もずっと昔に癌になり亡くなった。
でも大町さんご夫婦だけは28年間ずっと関口に残ってくれている。
あるとき大町さんはミサの時に僕のところまできて言った。
「なるけさん、とうとうみんないなくなってしまって僕たちだけになりましたね」
カトリックの信仰を捨ててしまったという人もいるのかもしれない。
でもきっとどこかの地で信仰を続けていると信じたい。
そんな大町さんご夫婦はルルド近くに車をとめているのである。
ミサが終わって僕はルルドにかならず行く。
聖母マリアへアベマリアをかならずお祈りするからだ。
祈りが終わるとちょうど大町さんご夫婦が車まで来ていた。
「なるけさん、元気ですか」
大町さんはさわやかな笑顔で僕に言った。
奥さんも笑っていた。
「元気ですよ」
いつもはそれで終わるのだけれども僕はめずらしく言った。
「大町さんもお元気ですか」
「表向きは元気にしてるよ」
そう言って笑っていた。
なるほどね。
病気なんだなあと思った。
でもどんなことがあっても笑顔でいるのがカトリック。
病気になっても笑顔でいられるというのがカトリック。
病気の大町さんからほんとうの元気をいただいた。
僕もたとえ治らない病気になってもすべてをイエス様にゆだねて笑顔でいられるよう信仰を強めたいと思った。
さて法典の湯ではともかくよもぎスチームサウナで頑張ることにした。
法典の湯がオープンした頃によもぎスチームサウナで喘息が治ったという奇蹟があったからだ。
僕は医師の診断を受け、
「風邪の後遺症的な気管支炎」と言われた。
自分としては風邪ではなくコロナだったと思っている。
法典の湯のよもぎスチームサウナのよもぎの袋はオープン当初は6袋だった。
よもぎのさわやかな香りが漂いよもぎの袋が置かれたあたりによもぎの効能が記されていた。
今はもうその効能の記述も取り除かれている。
そしてよもぎの袋は2袋まで減っている。
不思議と法典の湯を出てからは咳も痰もでず、今日もまったく咳もなく痰もでなかった。
つまり法典の湯のよもぎスチームサウナで完治したと・・・・・そう書きたいのだけれども、
おそらくは処方された薬をちゃんと飲む中、ちょうど治るときによもぎスチームサウナに入ったのだと
思っている。
2袋しかないよもぎの袋で気管支炎が完治したというのは法典の湯のほめすぎである。
僕ももう若くはないわけで、風邪をこじらせて肺炎なんてことだってあるわけだし、
若い時の感覚で生活していてはダメだと思った。
今日は咳は一回しかでなかったし痰はでなかった。
気管支炎は治ったのかもしれない。
船橋法典から西船橋。駅構内ではカルディは見た。
そして船橋。カルディだけは見た。
そして京成線。
ジュピターはさっと短く見た。
なにも買うものはなかった。
京成線の駅ホームのファミマで缶ビールを買った。
レンズをいれる小さなソフトケースにビールを隠しホームで飲んだ。
桂香はイベント出店が多い中華料理屋だ。
前回行ったときも次の週だかは大きなイベントに出店するので休業ということでフェスティバルのチラシをもらった。
桂香の売り上げはイベントがメインなのである。
自分は目を凝らすのだ。
桂香の置き看板の灯りがともっているかと。
目を凝らすと小さく桂香の看板が見えた。
ほんとうにほっとした。
自分はいつもふざける。
この日もドアをあけて腰を低くして怒ったような顔をしてじっとしていた。
マスターが気が付いたら挨拶しようとじっとしていた。
ところが厨房のマスターは全然自分に気が付かない。
しかたなく「ニーハオ」と言った。
18時。お客さんはいない。
いつもの席に座り、荷物をとなりの席に置く。
「マスター・・・テレビつけていい?」
そう言ってNHKを。
6時2分。
「ニュースやってるの?」
「うん、5分だけね」
そのあとは日テレのバンキシャ。
紹興酒のボトルも8分目くらいまで残っていた。
僕は冬でも氷。
この日もお水がほしいくらいだった。
そんなにお酒を飲みたいっていう感じではなかったのだ。
この日なら紹興酒の水割りでもよかった。
やったことはないけどね。
最新のメニューだ。
簡素化され若干値上がりしたものもある。
でも値上がりしたとしてもここは安すぎる(笑)
最近は前菜としてこちらのチャーシュー。
ここのお店の一押しであり一番人気は「水餃子」
でも最近はいつも焼き餃子をお願いしている。
小籠包2つ・・焼いたものがサービスとなる。
小籠包はスープがたっぷりなのでそのまま口の中にいれてたべちゃうのだ。
スープがほとばしりでる。
餃子は下味がしっかり目なのでお酢だけで食べる。
紹興酒だけでは辛いので瓶ビール。
するとマスターは僕の隣に座っていつもの強い酒をごちそうしてくれた。
ナッツのおつまみのサービスと強い酒。
乾杯する。
マスターに明日から禁酒と言うとマスターはすごく硬い表情となった。
そして静かに僕に言った。
「ストレスになるのでそれはよくない。毎日飲んだほうがいい。量をひかえて飲むようにする」
な、わけでこうして書いている僕は飲んでいる・・・・・ しかも量はひかえるつもりが隠していたお酒をとりだし
さらに飲みつつ・・・・・
ハッピーバースデーはご常連の女子たちが作ったらしい。
誰の誕生日ときくとここの店の一番の常連であるAちゃんの誕生日と翌月のM君の誕生日ということだった。
すでにAちゃんの誕生日パーティーは終り今月はM君のパーティーなのだけれどもM君はものすごく忙しいので
どうなるかはわからないとマスターは言っていた。
壁に貼ってある写真で鮮明に撮れている写真が2枚ほどあるのだけれどもそれは僕が撮った写真だ。
桂香に行ったら見てくださいね。
マスターとは酒を酌み交わしマスターが日本に来てからのことをはじめてお聞きした。
なぜマスターが日本に来たかということはずっと昔にきいたことがあったのだけれども実際に日本に来て
どんな仕事をしていたかはまったく知らなかった。
30代で日本に来たマスターはまずは日本語をおぼえるために料理とは関係のない仕事についたそうだ。
その後、誰でも知っているものすごいところで一日に何百食という中華料理を作っていたそうだ。
ものすごくしんどかったようだ。
休憩時間になるとバタンキューという感じでヨコになり眠ってしまったそうだ。
その次に働いたところは社員食堂だったそうだ。
ちゃんとした中華料理屋で働くということは考えていなかったとのこと。
なぜならそういったところの料理長はすごく権威があって店に入ってきたものはいくら仕事ができたとしても下働きを
何年もしなくてはならなかったからだという。
マスターは18歳くらいだったらそれもいいのだけれども自分は30代だったからそういった遠回りはしないということで
社員食堂で中華料理を作っていたそうだ。
そのあとにまた社員食堂で働いたのだけれども、そこでは日本料理、洋食、中華とすべてまかされ料理長になったという
ことだ。
きわめて待遇がよかったそうだ。
福利厚生も整ったいい会社だった。
調理師免許を取得したのもその社員食堂時代だった。
ずっと残ってもらいたいと言われたのだけれども退職したとのこと。
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(野菜炒め)
(野菜炒めを注文した。
もしかしたら桂香でははじめて食べる一品。
中国にもこういった料理はあるのかときくとないということだった。
中国ではいろいろな野菜をこんな風にミックスして炒めるという料理はないとのこと。
野菜五目炒めは日本だけのものだという。
でもマスターは手軽にいろいろな野菜をとれる健康食と言っていた。)
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そこから先の話しをききたかったのだけれどもお客さんが来店。
話しは中断。
そして僕は会計。
マスターは外まで出てきてみおくってくれた。
そうそう・・・・6月18日から桂香は3週間休業とのことだ。
またハルビンに行くとのこと。
マスターのご家族はご高齢となり会えるときに会っておきたいということだ。
「おみやげはなにがいい」
そうマスターは言った。
「いらないよ」
お土産より現地でのたくさんの写真をみせてもらいたいのだ。
6月18日までまだ1か月近くあるし桂香にはまた行く。
なんだかものすごくだらだらと書いてしまったけど、20年前から船橋を歩くようになりいきつけの店がたくさんあった。
でも桂香を残し全部閉店してしまった。
桂香だって永遠に続くわけではないので僕はもしも桂香がさよならということになったときのためにそれでも通える店を
ということで蒲田の鳥万に急接近しているのである。
あそこの2階の常連にまずはなろうとしている。
鳥万にはじめていったのはいつだったかはもうわからないのだけれども30年くらい前だったと思う。
つまり桂香よりももっと長い付き合いの大衆酒場なのである。
そして鳥万本店は僕たち家族が蒲田に住んでいたときにすでにあって僕は鳥万の近くでクラスメイトと遊んでいたのである。
ハタノという大親友と20数年前に鳥万で飲んだことがあって、ほんとうによい思い出となっている。
というのもハタノは10数年前に天国に旅立ったからだ。
大親友と鳥万でたった一回だったけど飲めたということは鳥万に通い続ける僕の気持ちをささえる思い出である。
今週は土曜日に大がかりな収録があるので鳥万には行けない。
25日(土)には鳥万に行く。
明日はキラリふじみので劇団銅鑼のゲネラル舞台写真撮影の仕事がある。
まあ、それとは関係はないけど、明日の分のブログをアップしました。
ながたらしくてすみません。