大衆あさひで飲んでいたら大将が普段は
どこで飲んでるのときくから、あまから屋の
住人だと言ったら大将は笑った。
「あそこの社長さんて船橋ケイバが好きで
若い頃はちょっと仕入れに行ってくると言っては
自転車で競馬場に行っていたってききましたよ」
たしかにお品書きにあそこはお馬さんのイラストが
あったし、船橋ケイバいりびたりの住人もいた。
だから船橋市民にとってのあまから屋のイメージ
っていうのは、ギャンブラーが朝から酒を飲んで
いて競馬場がよいしているというものではなかった
ろうか。
あまから屋の存在は・・・それはたしかにあれだけの
人気店だし知ってはいたが入りづらいものがあった。
しかし勇気を出して入ってみたらみなが抱くイメージ
とはまるで違う世界があったのであった。
僕にとってあまから屋こそが船橋の心臓だった。
そこに集う人たちの人間模様もけっして下衆な
ものでもなかったし、インテリジェンスさえ感じられた。
あまから屋は続いてもらわないとならない文化遺産
だったのだと思う。
あまから屋ほどの歴史はないけれどらーめん亭&
アッサムも同じ。
船橋の庶民食文化そのものを刻んできた時計だった。
あまから屋とらーめん亭&アッサムがなくあった
ときに僕が好きだった船橋もほぼなくなったのである。
そんな僕に最近うったえかけてくるというか・・・
それはホープ軒。
ホープ軒の歴史をたどる旅。
新横浜ラーメン博物館に行った方はラーメンの歴史
を展示しているコーナーを見ていることでしょう。
100年以上前に浅草で産声をあげた来々軒が
東京醤油ラーメンのルーツとされている。
それまでは南京町で中国人が作る豚骨ラーメンや
中国からもどってきた人たちが焼け野原に出した
屋台ラーメンが日本のラーメンだった。
しかし復興をとげて頭角を現した屋台ラーメン
こそがホープ軒である。
まあ、当初は錦糸町の「貧乏軒」であったわけで、
後に「ホームラン軒」として爆発的ヒットをした
屋台ラーメンである。
僕がホープ軒に最近になってここまでこだわって
食べ歩いているのは、あまから屋とらーめん亭&
アッサムがなくなったから。
やっぱり自分が生きてきた昭和を自分の中に
とどめておきたいからなのである。
浅草の来来軒って言ってもそれを知っている人は
もうかなりの年齢の方だ。
来来軒を引き継いだ店はあるものの、来々軒の
味がどうであったのかをほんとうに知っている人は
ひとにぎりである。
こうだったのではないかとか、再現をして
テレビでも放送されたし、僕も録画をして残して
いるけれど、それは不確かな記憶からおこしたことで
しかない。
ところがホープ軒は創始者がお亡くなりになったものの、
まだまだご子息はご健在であり、まさしく東京の
ラーメンを今に伝える生きたラーメン店なのである。
つまり来々軒というのは史実の範疇にあるけれど
ホープ軒こそが今も健在な東京唯一の歴史的な
ラーメンだと言えるということである。
僕にとって、東京ラーメンというのはホープ軒なのであり、
ホープ軒以外ではない。
おふくろも高校時代に新宿の大ガード近くにあった
ホームラン軒で食べて感動した。
このブログには三光町(現在は存在しないが歌舞伎町
ちかくにあった番地)のホームラン軒で働いていたのが
自分の母親だというコメントもいただいた。
お母様はご健在で今もラーメンがお好きということである。
昭和一けた世代にとってのホームラン軒やホープ軒、
そして僕たちの世代のとってもホープ軒系こそが
まさしく東京ラーメンの代名詞なのだ。
さて、最後に船橋のらーめん一丁であるが、
一丁のマスターは香月となりたけ津田沼店で修行
された。
ラーメンは香月を引き継ぎ、多くの数をさばいたり
といった技能はなりたけから受け継いだと言われて
いた。
たしかに一丁のラーメンになりたけを感じることは
なかった。
現在、ご主人は小岩でラーメン店を営んでおられるが
二郎系と勝手に位置づけられている。
これはご主人にとって心外なのではないだろうか。
一丁は香月となりたけと生粋のホープ軒系の店で
あるわけだから、大久保の店から小岩に移った
現在、ラーメン二郎インスパイアなどと言われる
筋合いはないと僕は確信する。