今日は・・・いや今日も・・・いつものように酒を呑み
よい気分になっている。
酒を飲んだときにはものを書かないようにしているのだが、
書いてしまおう。
??・・・・・なんで?
酒を呑んで書かないのは・・・・どーも私は
中高年となりちょっと中高年のいやらしさというものが
酒を呑むと出てしまうと自覚しているからなのよ。
若い頃のように明るい酒でもなく、さわやかな笑いで
終わる酒ではなくなっているのかもネ。
・・・なんだか毒素のようなものが出てくるから
書きたくないのです。
自分が歳をとったからということもあるかもしれないが、
今の世の中、とくに政治では「かんべんしてくれよ」「なに考えて
るんだよ」っていうこと・・・多くありません?
ほんとうはものすごく深刻な局面に来ているのに、
テレビをつけるとバカバカしい番組ばかりでヘラヘラ笑っている。
そういったことで知らず知らずとストレスを受けてしまい・・・・
酒を呑むとたまっているものがでてきてしまうっていう図式ですかね。
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以前このブログは「東京アテネウム」という名称であり、
けっこう気ままに書いていたのです。
なんでもかんでもネ。
仕事のことも、愚痴も、いろいろ。
でも「船橋に憩う~食の歳時記~」に表題を変えてからは
船橋での食べ歩きのみにしぼって書くようにした。
ここで書けなくなったことは、FBで書いているし、
目下、私のHPというものはFBなのであります。
それと、まったく不人気のブログでありますが、
「船橋料理研究ノート」というのがブログでは私の
メインのブログであります。
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船橋を歩きはじめ、今年の12月末でまる10年となる。
短かったなあと思います。
東京の大泉学園という町に住んでいたのに、
船橋に毎日のように行っていた時期もあったし、
東京の東のほうに住んでいないのによく通ったなあと
思います。
・・・・新橋からは30分で行ってしまうし、
船橋って「東東京市」(ひがしとうきょうし)と
言う著述家がたくさんいますネ。
千葉っていうより、ほとんど東京なのよ。
でも、そうとも言えるけど、やっぱり船橋は船橋の
すごいガーンとした個性が・・・たぶん江戸時代あたり
からのものが残っていて、やっぱり千葉・・・いや、
やっぱり船橋なんですよ。
東東京市というのは距離的にはそう言えても
船橋の本質は東京なんかではない。
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そんな船橋・・・私の船橋って言ったほうがいいかな・・・
歩くこと2年目に船橋法典の湯がオープンした。
船橋法典の湯っていうのは市川市にあるから市川法典の湯
っていうのが正しいのかもしれない。
でもそれを言ったら東京ディズニーランドも
千葉ディズニーランドなわけだからネ(笑)
私はその頃、ラーメン食べ歩きをやっていて、
法典の湯のチラシをどこかで手にした。
見るとオープン記念で回数券が半額!
スゲーと思って行こうとしたけど、
船橋法典って船橋からだと西船橋で武蔵野線に乗り換えて
いかなければならないわけで、やーめたっていうことで
いかなかった。
でもどんなものか行ってみようということで
オープンしてまもなく行ってみたのよ。
一番印象に残ったのは「ヨモギスチームサウナ」だった。
入るとヨモギのものすごくさわやかな香りがして
これはすごいと思った。
開店当初はよもぎの袋をそれはたくさん置いていた。
これが大人気で私はヨモギスチームサウナに入るべぐ
法典の湯に通っていたのであります。
でも、ある時からヨモギの香りがほとんどしなくなって
よもぎの袋も半分以下になってしまった。
スーパー銭湯みたいなところなわけで、
だいたいアンケート用紙ってありますよね。
でも法典の湯にはなかった。
客数は増えて順調に8年がすぎたけど、実際は
不満に思っている人も多いと思いますよ。
いろいろ不満があってもアンケート用紙がないから、
伝えられないだけ。
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昨日は、友人と法典の湯ということでいつもとは違ったパターンに
なったわけだけど、8年前からきている法典の湯仲間とも挨拶した。
かわらないように見えるのだけど、やっぱりみんな8年は歳を
とったはず。
私も8年前はたしかに8年若かったと思う。
なんのこっちゃ? いや、そういうことです。
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そういえば8年なのか、8年ちかくなのか・・・そのくらい
前から働いている従業員さんもいますよネ。
船橋の飲食店はオープンしたかと思うと1~2年で
クローズしてしまうし、ともかく移り変わりが激しい。
そんな中、法典の湯で8年間も名前は知らないけど
顔をあわせているお客さんとか、8年くらい前から
働いている従業員さんを見るとなんだかつっぱっていた
肩がゆるむっていう感じ。
だから、10年船橋を歩いた私としては
なるだけ変わらないでほしいんですよ。
らーめん一丁という私が船橋で一番好きだったラーメンを
出す店も船橋を捨ててどこかに行ってしまった。
ずっとおつきあいしたいと心に決めていたのに。
マスターとは友達関係のようになり、休みの日には
東京までラーメンの食べ歩きに行ったり、いろいろだったけど、
突然やめちゃった。
なんでよ、って携帯に電話したけど、「成毛さんには
話さなければならないって思っていましたが」で
なぜなのかは伝えていただけなかった。
なんだか、私はぽつんと一人船橋に残されてしまったって
いうさみしい想いとなった。
そんな心のすきまをうめてくれたのが60年も船橋に
根を降ろしていた老舗大衆食堂の「あまから屋」だった。
そのあまから屋が閉店してしまい、泣きっ面に蜂って
いう状態。
どこをどう歩いても私が好きだった船橋がみつからない。
でももう一度目を皿のようにして歩いてみれば、
昔と変わらずに残っている船橋があることがわかった。
ピーターパンに向かう道にある小さな小屋で焼き鳥を
やいているおばちゃんのやきとり屋。
市場でよく挨拶をする店のおばちゃんがやっている
「さゆり」という焼き鳥屋台(テレビで今月紹介された)
とか、いろいろネ。
まだまだたくさん・・・・
そんな中に市川市ではあるけど<法典の湯>もあるし、
酔っぱらって帰れなくなったときに泊まった<サウナ・モンシャトー>
もある。
モンシャトーのイメージはあんまりよくないと思うのだけど、
ここも船橋らしさっていうのを私は感じているんです。
あまから屋の常連さんの中にもモンシャトーをよく利用している
人もいたし。
モンシャトーには東京下町とはまた違った人情があった・・・あると
思っている。
私が一人で3階の食堂で飲んでいるときにきちっとしたと言っては
どこがきちっとしているのってつっこまれそうだけど、
ビジネスマン風の先輩から手招きされ一緒に呑もうっていうことに
なった。
楽しい会話とともに・・・割り勘と思っていたのに、
翌朝一階のレジで会計すると全部その先輩がもってくれている
ことを知った。
粋じゃないですか。
こんなことが船橋ではよくある。
いつも海のものとも山のものとも知れぬ、私に声をかけてくれて
酒をふるまってくれる人たちがいた。
そんなにオレって貧乏くさいかなあって思うこともあったのだけど、
そうではなく船橋の人たちの中に根づいている船橋ならではの
<人情>なんだと思います。
あとからとっつけたようなことを書いているって誤解されたく
ないのだけど、
江戸時代は宿場町として船橋は栄えていた。
いたるところ宿や旅人をもてなす料理屋。
そんな料理屋の中でも人気を博した店がいまでも船橋に残っています。
江戸時代からの歴史を踏み船橋の人たちを語るのなら、
「人を出迎える」「外から来た人を迎え入れる」という市民性が
あるのではと思ってしまう。
私は秩父に暮らしていたのだけど、はじめのうちはこちらから
毎日挨拶しても挨拶してくれない人がいた。
「東京から来たよそ者」だからだ。
秩父は盆地で周囲を山にかこまれている。
だからどっかにでかけていくということは山を越えて行くと
いうことであってすごく閉鎖的なんです。
でも閉鎖的であることに正比例するかのように
いったん仲間と認められるともうベタベタっていうくらいに
大切にしてもらえる。
そのいつまでたっても挨拶をしてくれなかった秩父人が
あるときに私を秩父人と認めたときからほんとうに
ガラッとかわってすごく親しくなった。
山里ってそういったものなのかもしれない。
船橋は海でしょ。
そして船橋大神宮に詣で、まずは船橋で一泊して
翌日は成田山をめざし歩いていくという巡礼の途に
あった地である。
昔の人たちは信仰心があつかった・・・んだよね。
だから成田まで詣でる旅人を迎え入れもてなしたと
いう歴史が今の船橋市民から消えてはいないと
私は思っている。
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・・・ということで酒を呑んでだらだらと
書いてしまった・・
ここらで終わることにする。
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