“霊は存在するか?”

大昔からあるこの論争の答えは未だに出ていない。それはこの論争に終止符を打つような決定的真実を提示できる者が現れていないからだ。


昔は、地球は動かず、太陽が地球の周りを回ってると信じられていた。しかし今や地球が自転しながら公転しているというのは常識である。それを常識に変えたのが確固たる証拠なのだ。誰が見ても疑いようのない明確な証拠があれば論争は一瞬で終結する。


よって幽霊論争も“霊が存在する派”か“しない派”のどちらかが決定的証拠を出せば終わるのだ。だが、存在しない派が証拠を出すのは難しい。なぜなら霊が居る場合はその存在がそのまま証拠となるので証明が簡単だが、居ない場合は証拠を見せようがないので、証明が出来ないのだ。よって、この論争を終わらせられるのは幽霊居る派だけなのだが、居る派が永きに渡り一度として(確固たる)証拠を出してないからこそ今も論争が終わってないのだ。

居る派も論争に勝利したいだろうから証拠を持っているのに隠してる訳ではないだろう。ようは持っていないのだ。霊なんて居ないのだから霊が居る証拠を持っている訳がないのである。


「金縛りにあった」と言う人がいるが、体が動かなかったら霊なんか?超能力者の仕業かもだし。透明人間が押さえ付けてるとか。「俺があなたにこっそり筋弛緩剤打ってたんですよ実は」って言ったらどうします?単なる筋肉疲労の可能性は?謎の虫に毒を注入されたのかもしれないし。思い込みによる自己暗示で体が動かせなくなってるだけの可能性もあるので、体が動かなくなっただけでは霊の存在を証明した事にはならない。


“悪霊の呪い”などと言うが、死んだらなぜ人を呪う力が急に身につくのか?なぜ初めて人を呪う時でさえ散々人を呪ってきた熟練者のように自由自在に呪いを操れるのか?設定が唐突だし理論的ではない。作り話の時にのみ成り立つ話なのである。


心霊写真も霊の存在を証明する材料とはならない。例えば自撮り写真には失敗がほぼ無いが、集合写真には沢山ある。自撮り写真は、自分で好きなだけ納得いくまで何十枚でも撮り直し、成功した写真だけをアップ出来る。だが集合写真は人に撮ってもらうので自分で全てをコントロールする事が出来ない。撮る側のタイミングでシャッターが切られるので自分の思い通りに行かず、撮る瞬間に瞬きして目をつぶる失敗をする事もよくある。心霊写真は霊の自撮りではない。霊が偶然写り込んだ写真の場合、霊側にとっても不意を突かれた瞬間のハズなのに、私は霊の局部や乳房が写った心霊写真を一度も見た事がない。なぜ心霊写真には失敗が無い? 加工が上手くいき、成功した写真だけを心霊写真として世に出してるからですか?


大体、霊たちはなんでそんな頻繁に他人の所に姿を現すの? 大概、知らない人の所に現れるよね?もし私が霊に成れるなら、真っ先に家族に会いに行くけどね。「俺は大丈夫だから」と家族を安心させたり元気付けたりしたいし。あと生前、一緒に過ごしてくれた日々にもお礼言いたいし、今後の事でも言っておきたい事もある。「◯◯保険の事は誰々さんに連絡したらいいよ」とか「〇〇証券の口座にも◯◯円入ってるから、それ引き出すの忘れないでね」とか、「スマホはもう解約の処置終わってるから」とか伝えたい。


多分、霊に成ったら皆んなそうすると思うな。そうなれば、遺族はみんな、かなりの高確率で死んだ家族の霊に会ってると思う。でも聞かないよね、そういう話。なんで遺された家族たちは“毎度恒例の心霊あるある”と言える程、死んだ家族の霊に遭遇した体験をしてないのかね?霊はなんで他人の所にばかり出没するのかね?修学旅行生はそんなにいいか?お前ら修学旅行生の集合写真に写るの好きだよな?


霊が居たらこんな行動、変ですよね?


居ないって結論でいいと思いません?