全ての人が神や宗教を信じている訳ではないが、宗教が生活の中心になってる人もいる。そりゃそんな生き方もあるだろう。なんせ神の教えに従っているのだ。神の言葉だったら従いもする。


しかしすでに入信している人々はどうやって従っていく神を決めたのか?車選びをする際は各メーカーの車をタイプ別にチェックし、価格、外観、内装、収納、操作性、安全性、乗り心地などを総合的に評価して自分に合った一台を選ぶだろう。宗教は、およそ終生に渡って付き合っていくものであるのに、ほかと比較する事もせず、たまたま誘われただけの教団にその誘われたままの流れで入団するなど考えられない。この世には無数の宗教があり、その同じ数だけ神の教えもあるのだ。宗教がどれも似たようなモノなら何を選ぼうが構わないが、それぞれの宗教は教義や思想、物事の定義や概念までもまるで異なる。神を唯一の存在として信じる一神教と呼ばれるものもあれば、複数の神々を崇める多神教もある。また神の容姿に関しても伝え聞く話は多種多様である。人の姿をしたもの、肌が青かったり、動物のような姿のもの、形の無い存在であると考える宗教もある。天国・地獄の概念も、キリスト教では神と悪魔は敵同士であるのに対し、仏教では天国で働く者と地獄で働く者が同じ会社の仲間のような関係であるなど、それぞれ全く異なる。ひとつの宗教だけで見ても考えの違いにより幾つもの宗派に分かれていたり、個々の教団ごとにも様々特色がある。探せば自分に合うものが見つかるはずである。


だがそもそも各宗派が語る“”に統一性がないのは、それらが実際の体験からくるものではなく、空想の産物だからである。犬について語る時、「犬には羽がある」などと言い出す人がいないのは、誰もが犬をハッキリ認識出来ているからであり、認識出来ているものについて意見がバラバラになることはない。


「罪を犯した人間には神が罰を与える」というが人間を作ってるのも神なのだから、そもそも神が悪人作らなかったら済む話だし、「神は我々に試練を与え試している」というのも、神が全能なら自分で作った人間がどう動くかは試さなくても分かるハズだ。それに人類の長い歴史の中には戦争や疫病など、人が大勢死ぬ事が何度もあったが、なぜ度々起こるのか。神がそれを防げなかったのなら神は全能ではない。防げたのに防がなかったのなら神は慈悲深くない。神に完璧を求める気も無いので普通の人と同じような存在だったとしても構わない。ただ普通の人を崇める宗教には入らないが。これほど存在が矛盾するのは、神が存在しないからである。


しかし、たとえ神がいなくとも、神がいると仮定して作られた教義には、本当に人の幸せを願って作られたものも多くある。後付けで人が作ったものでも人生を実りあるものにするような教えなら歓迎すべきだろう。神様を信じて生きる人のほうが、悪行をはたらかず善行に積極的だし、進んで人助けをするような人が多い世の中のほうがいいに決まっている。よって素晴らしい理念を掲げる素晴らしい宗教に感銘を受けて生きる事は、むしろ良い事である。


ただし、素晴らしい宗教に携わる人間が全て素晴らしい人間という訳でもない。現に、カトリック信者が司祭に性加害を受けるという事件もあった。神を信じる心が自分の中にほんのちょっとでもあれば、悪事を働こうとする時、神の事が頭をよぎり一瞬ためらってしまったりするものである。ところがコイツは司祭という職責に身を置きながら平気で悪事が行えるのだ。司祭の立場で神を全く信じないのだから、神との距離が遠い私が神を信じないのは当然と言えるのかもしれない。だからと言って私に他人を思いやる気持ちが一切無いかというとそうでもないし、神に仕えててもクソみたいな奴もいる。なので個人的には宗教を必要と思った事がない。


仏教では仏門に入った僧などに戒名を授けたりする。つまり戒名は本来、許された者にだけ与えられるものだ。しかし、日本ではいつの頃からか、死後、あの世で不憫な思いをしないよう故人に戒名を授けて送り出す風習が生まれた。立派な名前があれば死後の安寧を得れるだろうという想いからである。本来は認められた者だけに許された戒名を、金を払って手に入れる。戒名にも位があり、高位になればなるほど値段も上がる。生前の信仰心や生き方などに関係なく、徳を積まなくても金を積めば高い位が貰えて死後の平安が手に入るってどうなのか?金を貰ったからって高い位あげてる側もどうなのか?金と引き換えの戒名なんてご利益あるのか?仏様はそんな事、許してくれてるのか?


昔、キリスト教会は魔女狩りと称し罪のない人々を何万人も処刑した。近年も地域によってはそれを名残りとする非道な行為が行われている。ユダヤ教で育ったイエスの中には「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」という精神があり、のちの「汝の敵を愛せよ」という言葉にも繋がっている。どういう経緯を辿ったらキリスト教徒は神やイエスの名のもとに愛すべき神の子らを残虐に、かつ大量に殺す事になるのか。「こんな行いは間違いだ」と気付くのに何万人もの犠牲が無いとダメなのか。普通の人より神や愛に触れ、学んだ者のほうが普通の人より人を傷つける。宗教って一体なんなんだ。


良い教義を抱える世界的規模の宗教でさえ、解釈を誤れば間違った方向に進んで悲劇を招く事もあるのだ。ましてやその辺のおかしなインチキ野郎が金と権力の為に思い付きで始めた欲まみれの新興宗教など、まともであるハズがない。


一度くらい、自分が入信する教団が一生を捧げるに相応しい教団なのか、客観的に見る機会を使ってみたらどうだろうか?