「人は見かけによらない」という言葉がある。これは良い意味でも悪い意味でも使われるが「外見は人を推し量る目安にはならないので、その人間の本質を知るには心を知る必要がある」ということ。
私は無神論者だが、高校生の頃に通っていた学校がたまたまプチ・ミッション系の学校で、学校の敷地内には豪華な教会があり、たまに授業の一環として、大きな礼拝堂に生徒が集められ、“有難い話”を聴く時があった。
とある日、牧師が「人は見た目で判断してはいけない」と話していると、ある生徒がその牧師に質問をした。
「神父様(←牧師)は、超美人だけど性格の悪い女性と、心は綺麗だけど超ブスだったら、どっちを選びますか?」
内心はどうか知らんが、聖職者が「美人を選ぶ」とか言う訳ないだろ。聞くんじゃねえよ。と私は思った。
牧師は言う。
「私なら美人を選びます」
「は?」←わし
周囲がザワつく。
「見た目は変える事が出来ませんが、心はいくらでも美しく変われますからね。どちらの心も美しいなら、美人の方がいいでしょ?」
あ〜はいはい、なるほど、そういう観点か。
“形の無いものは幾らでも変化させられる”という発想ね。「何かを始めるのに遅過ぎるという事はない。なら心は必ず100点に出来るハズだ。なので心を気にする必要はない。だから私は外見で選ぶ。って良いこと言ったでしょ?僕、凄いでしょ?」と言いたいのだろう。
意表を突く発言でインパクトはある。最初にギョッとさせ次に「ほほう」と関心させる構成も悪くない。小ネタとしても面白い。しかしその答えには全く共感出来ない。
「美人を選ぶ」「見た目は変える事が出来ない」は、裏を返せば「ブスは選ばない」「ブスは死ぬまでブスのまま(整形手術を別にすれば)」という事。ブスな女は一生その牧師には選ばれない。「生まれながらに選ばれない事が決定した人生ですよ」という全否定。なんと残酷で救いの無い話か。
好みは人それぞれなので、牧師にとってのブスも、誰かにとっては美人という可能性も無いとは言えない。しかし残念ながら“人により好みが分かれる”と言っても、一般的に美の基準にはそこまで大きなズレが無い。変わった趣味の人が居るには居るが世間的に美人とされる人は、どこに行っても大抵その肩書きが外れる事はないのだ。モデルから有名になった桐谷美玲、西内まりやを前にしても、男みんなが「好みのタイプ」とは言わないかもしれない。しかしそれでも「美人・普通・不細工のどれに当て嵌まりますか?」と聞かれれば全員が2人を[美人]に分類するだろう。
更に、心の可能性が無限だという主張も、余りに短絡的である。「心は変えられる」と言うが、私の経験上、残念ながら殆どの人間は性格が変わらない。5歳くらいまでに形成された性格は死ぬまで同じなのだ。一見、性格がガラリと変わったように見えるケースも、実はそうではない。
面倒くさがりで部屋が汚かった人が、ある時から部屋を綺麗にするようになったとする。しかし、それは片付けが面倒じゃなくなったからやるようになったのではなく、面倒だが片付けているのだ。歳を重ねるにつれ社会性が身につき、いつまでも子供の頃のように散らかしたままという訳にはいかなくなるから、仕方なく片付けをするようになるだけの話である。
それに、散らかっていると何が何処に有るのか分からないので、何をするにもイチイチ探す所から始めないといけないし、うっかり硬い物でも踏もうものなら足の裏が痛くて悶絶する羽目になる。
何でも床に置きっぱなしだと椅子のキャスターで大事な物を轢いてしまう危険だってある。壊れたら新しいのを買いに行くための手間が掛かるし、余計な出費も増える。
結局、散らかってる状態が一番面倒臭いので、面倒がり屋たちは面倒を減らす為に部屋を片付けているのだ。決して掃除好きになどなっていない。
殆んどの場合、面倒がりは面倒がりのまま、せっかちはせっかち、ヒガミ屋はヒガミ屋、ケチはケチ、ガサツはガサツのまま、今より良くも悪くも成りはしないのだ。
神父の言葉は神の言葉ではありません。
良い神父・牧師・シスターが大半でしょう。
しかし神父はあくまで人なのです。
間違う事もあれば欲望に負ける事もあります。
ある方が「信者が神と指導者を混同しやすい」ことを懸念し、そこにつけ込まれて苦しい想いをする信者に対し、心を痛めておられました。
神が何も答えなくとも、ただ一途に信じ続ける事が信仰ですよね。
神の前では皆、平等です。
あなた方同様神父にも、神が語り掛ける事はありません。神父にも原罪はあるし、苦悩もあるし、過ちも犯すし、神に試されてもいます。
あなたの正しき信仰の為にも、如何なる者からの涜神行為も許容せぬ事です。
『パッション』(2004年)
-The Passion of the Christ-
キリストの受難”を描いた衝撃作
ナザレのイエスをジム・カヴィーゼルが演じる。言語も英語ではなく、アラム語、ラテン語、ヘブライ語を取り入れリアルを追求。
『沈黙 -サイレンス-』(2016年)
-Silencn-
救いや信仰の在り方を議論してしまう
原作は遠藤周作、監督は『クンドゥン』のマーティン・スコセッシ。イッセー尾形がスゴい。
11.