池田晶子『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』Ⅴ「黙らっしゃい!」17「日本の考える人 考えなくても同じこと」西田幾多郎(3) 現実というものを「論理」的に考えるというときには、やはり「ヘーゲルのDialektik(弁証法)」というようなものによらなければならぬと思う!
※ 池田晶子(1960-2007)『考える人 口伝オラクル西洋哲学史』 1998年(1994年初刊、34歳)中公文庫
(26)-3 現実というものを「論理」的に考えるというときには、やはり「ヘーゲルのDialektik(弁証法)」というようなものによらなければならぬと思う!
★西田幾太郎について、「偉いなあ」と私(池田晶子)が感嘆するのは、30代の処女作『善の研究』、ここでもう全部わかってしまっているくせに、なお考え書き続ける持続の力だ。(333頁)
★さて西田幾多郎の講演集を引いてみよう。(333-335頁)
☆〈昔からの「論理」というものでもっとも根柢的なもの取り出すならば3つ取り出すことができるだろうと思う。第1「アリストテレスの論理」、第2「カントの transzendentale Logik(超越論的論理学)」、第3「ヘーゲルのDialektik(弁証法)」。・・・・
☆現実というものを「論理」的に考えるというときには、やはり「ヘーゲルのDialektik(弁証法)」というようなものによらなければならぬと思う。・・・・
☆仏教の方でも・・・・やはり「論理」というものがある・・・・。すなわち「Metaphysik(形而上学)」があるということはやはり「論理」というものがなくてはならない。だから華厳とか天台とか、ことに華厳なんかの「Logik」というものはよほど「ヘーゲルのDialektik」のような意味をもったものだと思う。・・・・
☆「ヘーゲルの論理」はどういうふうな意味でいったい「主語的論理」で、いけないか、「私(西田幾多郎)の論理」というのはどういう「論理」であるかというようなことをちょっと簡単に話しておかないというと、「現実世界のいろいろのものを『論理』的に考え、どういう意味において現実世界というものは構成されているか」、とうことに都合が悪いと思う。それで簡単に話したい・・・・。〉(『現実の世界の論理的構造』1933年)(333-335頁)
《参考1》西田幾多郎(1870-1945)の哲学!(参照ChatGPT2026/07/14)
西田幾多郎は「禅」の思想と「西洋哲学」を融合し、「西田哲学」と呼ばれる独自の体系を発展させた。代表作は『善の研究』(1911)。西田哲学を理解するうえで重要な概念は、①「純粋経験」、②「場所」(場所の論理)、③「絶対無」、④「絶対矛盾的自己同一」の4つだ。
(1)「純粋経験」
西田の「初期」哲学の中心概念。私たちは普通、「私が花を見る」のように「見る私(主観)」と「花(客観)」を区別する。しかし西田は、その区別が生じる前の、経験そのもの(Cf. 超越論的主観性)が最も根本的な現実だと考えた。例えば、美しい音楽に完全に没頭している瞬間には、「私が聴いている」という意識よりも、「音楽そのもの」があるような状態になる。このような主観と客観がまだ分かれていない経験を「純粋経験」と呼ぶ。
(2)「場所」(場所の論理)
「後期」になると、西田は「場所」という概念を発展させる。あらゆるものは、何らかの「場所」において存在すると考える。しかし究極的には、世界全体を包み込む根源的な「場所」(Cf. 超越論的主観性)があり、それは単なる空間ではなく存在そのものを成り立たせる基盤だ。この考えは、西洋哲学の「主体と客体」という対立を超えようとする試みだったと言われる。
(3)「絶対無」
西田の「無」は、「何もない」という意味ではない。あらゆる存在を生み出し、受け入れる根源的な基盤としての「無」(Cf. 超越論的主観性)だ。この考えには「禅」など仏教の影響があるが、西田は宗教的体験(「禅」)をそのまま語るのでなく、哲学として論理化しようとした。
(4)「絶対矛盾的自己同一」
最も難解な概念の一つ。普通なら矛盾するものは両立しない。しかし西田は、「対立するもの同士が互いを否定しながらも一つの現実を形成している」と考えた。例えば、自己は他者との関係の中で自己になる、個人と社会は対立しながらも互いに成立させ合う。このような「矛盾を含んだまま成立する統一」を「絶対矛盾的自己同一」と呼んだ。
(5)西田哲学の特徴
★西田哲学は、次のような特徴を持つ。
☆西洋哲学(カントやヘーゲルなど)の論理を積極的に取り入れる。
☆「禅」など仏教の思想を哲学的な言葉で表現し直す。
☆「主観か客観か」という二項対立を超えようとする。Cf. 超越論的自我(主観性)、超越論的他我(主観性)、超越論的相互主観性。
☆「経験」・「自己」・「世界」を一つの統一的な体系として理解しようとする。
★現代への影響:西田の思想は、京都学派の基礎となり、哲学だけでなく宗教学、美学、倫理学、心理学など幅広い分野に影響を与えた。海外でも研究され、日本哲学を代表する思想の一つとされる。
★西田哲学は難解だが、全体を一言でまとめるなら、「世界は『私』と『世界』に分かれる前の根本的な経験から成り立っており、その根底にはあらゆる対立を包み込む『絶対無』がある」という思想だと言える。Cf. 超越論的自我(主観性)、超越論的他我(主観性)、超越論的相互主観性。
《参考2》西田幾多郎『善の研究』(1911)(参照ChatGPT)
☆『善の研究』(1911)は西田幾多郎の代表作で、日本哲学の出発点となった古典。この本では、「善とは何か」という倫理学の問題を扱いながら、人間の認識、意識、宗教に至るまでを一つの体系として考察する。
☆全体は次の4編で構成される。第1編「純粋経験」、第2編「実在」、第3編「善」、第4編「宗教」。この4つは独立したテーマではなく、「純粋経験」から出発して「世界(実在)」・「倫理(善)」・「宗教」へ進むという一つの流れになっている。
(1)第1編「純粋経験」
☆本書『善の研究』で最も有名な部分が、第1編「純粋経験」だ。
☆西田は冒頭で、「純粋経験」(Cf. 超越論的主観性)をおおよそ次のように定義する。「経験するものと経験されるものとがまだ分かれていない、直接の経験」。
☆例えば、赤い夕焼けに見入っている瞬間、音楽に夢中になっている瞬間、子どもが世界を素直に感じている状態などでは、「私が見る」「私が音楽を聴く」「私が世界を感じる」という意識より先に、「見るor聴くor感じるという経験そのもの」がある。
☆西田は、このような直接経験こそが最も根本的な現実(「純粋経験」)だと考えた。
(2)第2編「実在」
☆私たちは普通、「私(主体)」と「世界(客体)」を別々に考える。しかし西田は、それらは「純粋経験」(Cf. 超越論的主観性)から後になって分かれたものだと考える。
☆つまり世界は最初から「私」と「世界」に分かれているのではなく、「一つの現実」(「純粋経験」)が二つに見えるようになったor分かれたという立場だ。
(3)第3編「善」
☆西田にとって「善」とは、単に「ルールを守ること」ではない。人間が本来持つ「能力」や「人格」を十分に発揮し、自分自身を実現することが「善」であると考えた。
☆これは、西洋哲学、とくにイギリスの哲学者トマス・ヒル・グリーン(1836-1882)の影響を受けている。
☆ただし、西田は「自己実現」を「他者や世界との調和」の中で考えており、単なる自己中心的な成功とは異なる。
(4)第4編「宗教」
☆最後に、西田は宗教を人間存在の最も深い問題として扱う。
☆人は有限であり、死や苦しみを避けられない。その有限性を深く自覚したとき、人は宗教的な問いに向かう。
☆ここで西田は、神や仏についての教義を説明するのでなく、「自己とは何か」、「絶対者とは何か」、「真の自由とは何か」を哲学的に探究する。こうした考え方が後年の「絶対無」の哲学へと発展していく。
(5)『善の研究』の意義
☆この本が画期的だったのは、西洋哲学を単に紹介するのでなく、日本から独自の哲学を生み出した点だ。
☆また、「禅」の体験など東洋思想をそのまま語るのでなく、「論理的・哲学的」な言葉で表現しようとした。
☆初めて読む人へのポイント:『善の研究』は現在ではやや難解だが、第1編「純粋経験」だけでも読む価値がある。ここには西田哲学の出発点が凝縮されている。その後の「場所の論理」や「絶対無」といった後期思想は、この「純粋経験」の考えをさらに深めたものとして理解すると、全体像がつかみやすくなる。
Cf. フッサール(1859-1938)、西田幾多郎(1870-1945)