別例祈恩都監に到着し、湯が整うまで再び蓑虫状態。
椅子に腰掛け、足を抱えて布にすっぽり覆われて、傍から見たら変な生き物だ。
そんな生物の前に跪いて、私に視線を合わせながら「ソラ」とはっきり名前を呼ぶチェ・ヨン。
「【気】を整えるには、呼吸を落ち着かせてください」
いまだ体内で暴れ回る氷功は、徐々に私の体力と気力を奪っていく。
彼が真剣に内功の扱いを助言してくれているのに、私は他の事が気になった。
今度こそ確実に私の名前を呼んだ。
幻聴ではなく、しっかりと耳に届いている。
私の事を思い出したの?
「丹田に集中し、押し込めるのです」
「…… あの、いま、…… 名前を、」
「呼びましたが、なにか」
「…… 記憶が?」
「その事は後でもよいので、集中してくだされ」
そんな事はどうでもいい。
そう捉えた私は、どんどんと卑屈になっていく。
そうだよね。記憶を奪うような女だもの、恨んでいるよね。
私が【天仙】だから、丁寧な対応をしてくれているだけ。
迷惑もたくさん掛けた。
言う事を聞かない女なんて願い下げよね。
ウンスをじっと眺めていた彼を思い出す。
記憶を失くしたから、本当に寄せるべき相手へ心が向いた。
私ではないと気付いたはず。
ドラマ通りに、彼はウンスを慕っている。
それは、ずっと望んでいた事だけど。
彼が好きだと自覚した今は、心が千切れるほど痛い。
そう思うと凍る速度が一気に早まり、全身が凍り付いていく。
「…… ぁ、…… あぁ、」
「ソラ!!」
両頬を包む大きな彼の手。
チャン侍医とは違う、剣を握ってきた武人の固い手。
真っ直ぐ私を見詰める瞳の中には、私が映っている。
ああ、酷い顔をしているなぁ。
「ソラ!」
「記憶、…… ごめん 」
それだけは謝りたかった。
「記憶の事はいいから! 氷功を鎮めてくれ!」
「…… はなれ、て」
「死ぬ気ですか!!」
そう叫んだ彼は、頬を包んでいた手を離し、体全体で私を包み込んだ。
「たとえ、また奪われたとしても、思い出すゆえ!」
すぐに思い出せなかったくせに。
氷功の所為なのか、心がどんどんと冷えていく。
このまま彼と一緒に凍ってしまおうか。
ずっと一緒にいられる。
一緒に、
なんて馬鹿な事を考えたんだ私は!
「離れて!!!!」
私は力一杯に彼を撥ね退け、立ち上がり仁王立ちした。
「ダメ駄目だめ、ダメ!!」
危うく氷功に飲まれて彼を巻き込むところだった。
「触れないで。凍らせてしまうし、奪ってしまう」
【気】を操れると過信し、結果、記憶を奪ってしまう。
氷功を奪っておきながら、それを処理しきれなかった。
そんな私なんか。
「私の事は、いいの」
「よくありませぬ!」
「いいの!! 貴方は、もう気付いたでしょ。本当は誰を慕うべきかを!」
「…… 何のことを、」
「ずっと見て来た! 貴方と、彼女の物語を!」
「彼女?」
「だから! 私が、帰れ、ば …… もとに、」
「ソラ?」
「…… ん?」
あれ?
あれほど体内で暴れていた氷功が感じられない。
痛くて寒くて辛かった体も、倦怠感が残るだけ。
氷功はどこにいったの?
丹田?
え、まさかまさかの?
腹から大声を出して、その勢いで丹田に抑え込んだというオチ?
体内の【気】を探ると、若干弱いが正常に巡っている。
「…… えっと、なんか、氷功が治まった、みたい?」
「真ですか?」
「腹の底から叫んだから …… ?」
「体は?」
「大丈夫」
「真に?」
信用がないのか、疑いの眼差しのまま彼は私の左肩を掴む。
そこは、キ・チョルから直接攻撃を受けた所だ。
「いっ!」
痛いってばよ。
彼に嘘がバレてしまい、溜息を付かれた。
そういえば、千音子が彼に左肩を意味ありげに指差していたな。
「あ、あのぉ …… 」
私達が静かになったのを見計らってか、イプチュンがおずおずと声をかけてくる。
お風呂の準備が整ったようだ。
「寒さは治まったから、」
「温まってください」
チェ・ヨンのその一言により、イプチュンとミョンスクが戸を開け、どうぞと誘う。
そこまでされたら入るしかない。
一歩踏み出したところで足に違和感を覚えたが、そのまま湯屋に入った。
浅い桶に、濁った湯が張ってある。
おそらく薬草入りなのだろう。
左肩は矢張り青黒く変色している。
そして、足の先と指先は赤く腫れていた。
最初は熱かったが、入っているうちに適温になってきたのか、心地よい温度になってくる。
ウトウトとしながら、先程のチェ・ヨンに放った言葉を思い出し、あれは余計な一言だったなと反省した。
チェ・ヨンはウンスに心を寄せ始めたが、誠実で堅物な彼は、部下と彼女の仲を裂く気はない。
心の奥に留めておきたかった気持ちを指摘されて、困惑しているだろう。
チェ・ヨンも幸せになって欲しい。
どうしたらいいかな。
残りの日数はあと僅か。
やっと現実に戻れるという安堵と、読めない今後の展開への不安と、近づく別れの日を思うと自然と涙が零れた。
女という生き物は厄介だ。
感情が先に来てしまう。
別れたくない。
皆と一緒にいたい。
でも、私が天門をくぐる事は確実だろう。
別れは避けられない。
もとの物語に戻って欲しいという願いも嘘ではない。
だけど、彼を想う気持ちも偽りではない。
彼と一緒に、この世界を見守っていきたい。
葛藤は続く。
はぁと大きな息を吐いた。
「ソラぁぁ!!」
「ぎゃあ!?」
湯屋の戸が勢いよく開き、ウンスの怒気を含んだ声が湯屋に響く。
まるで母親に叱られる声色に似ていて、湯の中で身を縮めた。
目を吊り上げたままウンスは、私の身体を隅々まで検診し終えると、脈診をしながらぽろぽろと涙を流す。
「え、え、ウンスさん?」
「私の処刑を取り消す為に、なんで自分を差し出すのよ!」
「あ、ああ、えっと、それはですね」
「なんでいつもボロボロになって帰ってくるのよぉ」
「こ、これはですね、ああ、泣かないでください」
ウンスに泣かれると本当に困る。
彼女を救いたい一心で動いたが、結果、彼女を泣かせている。
チェ・ヨンを救う。ウンスを助ける。
皆の死亡を書き換えたくて動いていたが、結局それは、自分が納得する結末になるように動いていただけのこと。
ただの自己満足に過ぎない。
私は彼女にキチンと説明し、泣き止むまで「ごめんなさい」と謝り続けていたのだった。
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