『 』= 日本語
起きると賃貸アパートで、遅刻しそうだと慌てて支度をする夢を見た。
だから、目を覚ましたら現実に戻れると思っていたのに。
目を開けると、ウンスが心配そうに覗き込んでいた。
まだ隣国の過去にいるらしい。
「大丈夫? ア~ …… Are you OK?」
「…… I'm OK. 」
体は重いが、大丈夫だと答える。
あの四人でおやつを食べた時の雰囲気。
落ち着いていた私の心。
その時の感覚は間違っていない。
ウンス達は友達だ。
何故、彼女が此処にいるのかは上手く会話が出来ずに伝わらなかったが、心配をして駆けつけてくれたのだと察した。
「『大丈夫。えっと』 Are you OK?、…… クェン、チャ、ナ? 大丈夫?」
「OK!『ダイジョブ』── 、 I'm OK. クェンチャナヨ」
よく使用しそうな単語を覚えようと、教えてもらうことにした。
挨拶と、今のような返答の単語のみだが。
そんな事をして気を紛らわしていると、女官の中でも一番上の位っぽい人が来た。
しかし会話が出来ず、私が日本人だということを知った彼女は渋い顔をする。
この時代、こちらの人にとって日本人は疎まれているのだろう。
ウンスを通して女官にお風呂に入りたいと告げると、用意をしてくれた。
古い時代でも皇宮なので、形のある風呂場で安心した。
ウンスから貰った石鹸で、体を洗う。
彼女とチャン先生で作ったらしい。
凄いな、彼女は。
こんな訳の分からない所に来ても、医者として人々を助け、便利な物を作っている。
私は記憶がなくなる前、何をしていたの?
ここに置いてもらう為に、働いていた?
私なんて会話すら成立出来ないし、何の取り柄もないから、どうしていたのだろう。
思い出せない。
忘れたい事は、覚えているのに。
いくら婚約者だからといっても、強姦まがいな事をされて平気でいられる訳がなかった。
唯一の救いは、眠っている間に終わっている事。
睡眠薬を飲まされるなんて、まさか自分の身に起きるなど予想もしなかった。
毒やら睡眠薬やら、一体何なんだこの世界は。
石鹸が半分になってしまうまで、体を洗っていた。
物理的には綺麗になる。
でも、徳興君にされた行為は、綺麗に洗い流せない。
『私の初めてがぁ ……』
あんな最低な奴に、【初めて】を奪われるなんて最悪だ。
こんな扱いを受ける為に、私はタイムトラベルされたのか?
私は何の為に、此処にいるの?
誰かこれは夢だといってくれ。
『帰りたいよぉ ………… っ ……』
風呂場で声を殺して泣いた。
**
スマホの充電もなくなりつつあったので、バッグから太陽光充電機器を取り出す。
その拍子に、綺麗な布に包まれた薄い四角い物が飛び出した。
ソーラーパネルを窓に配置し、スマホを充電しながらその布を手に取る。
入れた覚えのない物。
しかし、自分のバッグに入っていた物なので開封してみた。
布の中には、畳まれた紙。
表紙には『そらへ』と書かれている。
私宛の手紙のようだが、開くと見覚えのある棒人形が書かれていた。
一見、踊りの手順イラストのようで、しかし手足が無かったり旗を持っていたりと意味不明な棒人形。
これは、とある英国探偵物語に登場する換字式暗号の【踊る人形】だ。
人形の手や足の有無や形によってA~Zを表している。
この癖のある字は見覚えがある。
自分の字だ。
自分にしか分からないような暗号にして、自分に読んでもらう為に描いた手紙?
記憶がない今では、全く心当たりがない。
解読すれば分かるか?
バッグからノートとボールペンを取り出し、記憶を頼りに人形の動きにアルファベットを当てはめていく。
ふと、外に誰か居るような気配がした。
暗号解読を見られるのはマズイ。
窓から身を乗り出して確認すると、男が壁に背を預け腕を組んでいた。
髪は銀髪、服は白。
眩しいな。
手には竹か何かで出来た棒を持っている。
私の監視?
それにしては、よく見かける兵士達とは雰囲気が違う。
『貴方は、 …… ああ、通じないか』
誰かと尋ねようとしたが、日本語が通じない事を思い出して止めた。
しかし、白って目立つし、そんなヒラヒラした生地って存在するんだ。
よくよく考えると、かなり昔の時代なのに煌びやかな衣装が多い。
皇宮だから?
いくら国の中心だとしても、私が着ているようなこんな鮮明な生地ってある?
顔が整った人が多い事も可笑しい。
いくら美女や美形を揃えたとしても、美的感覚は現代寄り。
この人もイケメンだ。
こんな綺麗な銀髪なんて、漫画か映画でしか見た事ないんだけど。
全体的に、色々なモノが整い過ぎている。
しかし、矢張り自国ではないし、会話も通じないので分からない。
『う~ん、分からん』
脳が疲れた。
そういう時は、甘い物。
机の上に置かれていた菓子を二つ手に取り、再び窓へ。
『はい』
銀髪男に菓子を差し出すが、こちらに視線だけ寄越しただけで、すぐに興味なさそうに目を瞑った。
『ひとりで食べても楽しくないから、一緒に食べてくれますか?』
通じないと分かっていても、雰囲気で察してくれそうだったので強引に渡す。
彼が仕方ないという表情で受け取り食べ始めたので、私も頂きますと口を開ける。
「 ── !」
だが、その銀髪男は私の菓子を叩き落とした。
『ちょっと、なに!? なんで!?』
お菓子が勿体ないじゃないか!
男が短く何か言った気がするが、ごめん分からない。
すると彼が咳き込み、食べた菓子の欠片を吐き出して長身の体がぐらりと揺れた。
慌てて窓から精一杯手を出し彼の体を支えようとしたが、ソーラーパネルの上に乗ってしまい滑って窓から落ちそうになる。
地面に頭から突っ込む衝撃を予期し目を瞑ったが、ふわりと体が浮いた気がして目を開けると部屋にいた。
何が起きたのか分からないが、どうやら彼に助けられたようだ。
助けようとした方が、逆に助けられるとは恥ずかしい。
しかし動きが、一般人のそれではないような気がする。
横抱きにしていた私を床に下ろすと、銀髪の彼は膝を折り崩れた。
『だ、大丈夫? あ、くぇンちゃな、違うか 「クェン、 …… 大丈夫?」』
「!?」
発音どうかな、通じてるのかな?
もう一度、「大丈夫?」と尋ねてみると「大丈夫(クェンチャナヨ)」と返ってきてホッとした。
どうやら、菓子に何か仕込まれていたようだ。
徳興君の仕業だろう。
この人は私を助けてくれたの?
彼も、記憶がなくなる前の私の事を知っているの?
『私は、ソラ。貴方は、私の事を知っているの?』
呼吸を整えながら、壁に寄りかかり座る銀髪の彼に問うてみる。
言語が通じなくて首を捻る姿が、ちょっと可愛いと思ってしまった。
「………… チョヌムジャ、」
『チョ、? え、何て?』
何がチョなんとかなの?
名前?
「チョヌムジャ」
『ちょにゅ、ん゛!』
噛んだ。
言いにくい。
「………… ユチョン、──、」
そっちが名前なの?
さっきのは役職か何か?
チェ・ヨンは、テジャンだかホグンだか何か付いていたけど。
「ユ、チョ、ン。…… ユ、チョン? ユチョン、ユチョン! ユチョ~ン!」
「 ──、」
煩い。とか、文句的な事を言われた気がする。
「ユチョン、大丈夫?」
お菓子にどんな毒か薬が仕込まれていたのか分からないが、彼はすぐに立ち上がるので心配になった。
「ソラ、── 」
名前を呼ばれたのは分かるが、他は全く分からん。
でも、この人も名前で呼んでくれる人だ。
手が伸びてきて、頬に触れられる。
徳興君に叩かれ、少し腫れが残るそこを慈しむような瞳と触れ方。
嫌悪感はないし、鳥肌も立たない。
貴方も友人なの?
だが、すぐにその手は引っ込められ、ひらりと窓から外へ出て行ってしまった。
どうしたのだろうかと訝しんでいると、突如、部屋の戸が開く。
暗号の紙が出しっぱなしだ。
慌てて袖に突っ込む。
ノックも無しで、徳興君が入室してきた。
いくら婚約者でも失礼じゃない?
『すみませんが、一声掛けてください』
『声は掛けつもりだったが?』
本当か?
『書き物でも?』
紙を隠した所を見ていたのだろう。
『…… 答える義務はありませんよね?』
私にしか分からない暗号でも、暗号というからには私にだけ伝えたい【何か】があるはず。
特に、この男には知られない方がいいと直感した。
お菓子に何か仕込むような男だから。
『婚約者でも?』
『一度、寝たからって婚約者という権限で許されると思わないでください』
『寝た? …… ああ、致したと思っているのか』
小さな声で呟いているのだけど、聞き取れない。
徳興君のお付きの男性が入室し、何か言っていた。
女官の人達も私の後ろに控え、待機している。
え、何?
『これから婚礼の儀を執り行う』
『は? 今日!?』
最初は来月の15日だと言い、次に日取りを早めると言い、急に本日だと言う。
どういうことなの!?
『ちょっと待って。この格好で?』
『すべて普済(ポジェ)寺にある。既に重臣が揃い、皆で寺に向かう。待たせるな』
『せ、せめて、化粧をさせて』
徳興君は先に行っていると言い残し、踵を返す。
女官が残り、私の様子を監視していた。
隠した暗号の紙をバッグに詰め、窓の外に落としたソーラーパネルとスマホを取りバッグに入れると、そのまま外に置いた。
『お願い、ユチョン …… 』
姿が見えないが、おそらく何処からか私を監視している筈。
私のバッグの監視もお願い。
此処には信じられる人がいないから、もう貴方を頼るしかないの。
そう心の中で願いながら、急いで化粧をし、部屋の外で待機していた官服の男性に従い移動するのであった。
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