今月頭、2022年春季JDA大会(以下「2022春JDA」)が開催されました。

 論題は「日本はフェイクニュースの発信もしくは拡散を防ぐため、法規制を導入すべきである」でした。大会開催前1週間は検索結果一覧の大半が「Russia」「Putin」で埋め尽くされるなど、期せずして時事性も孕んだテーマとなりました。

 

 ブログ執筆者は、「ざわらしまろ」として、ディベートでもプライベートでも長らくお世話になりまくってるけどそういえば組んだことは一度もなかった後輩2人と出場しました。丸3年ぶりのJDA、丸2年ぶりのディベート、さすがに足を引っ張りすぎましたが、お陰様で楽しいシーズンを送ることができました。

 なかでも、「ざわらしまろ」のカシラの「ざわ」を司る「ざわざわ」先生から湧き出すアイデアは、どのシーズンにおいても非常に独創的で、ぱっと見では突飛ながらも非常にしっかりとした裏打ちがあるという不思議な魅力に溢れています。せっかくなので、途中で放棄したものやあまり使わなかったものも含めて、ここで公開・記録してはどうかということになりました。

 

 ということで、「ざわらしまろ」による2022春JDAの記録です。

  1. ざわざわ「アイデア紹介」(公開済)
  2. らっしー「ディストーションについて」(執筆中)
  3. まろ「」(そのうち執筆開始)

 

今回は、ちょうど1年前にもクリティークに関する寄稿をしてくれた、「まろ」さんからの寄稿です。

 

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こんにちは!まろです!
近頃はJDAの本大会でもクリティークと対戦する機会が増えてきており、ポリシーの話をしているときに相手がクリティークを提出してきたらどのように向き合えばいいのかを検討しなければならないフェーズに来ていると感じています。幸い、私は練習試合・本大会を通してクリティークと対戦する機会に恵まれており、試合上の経験から、どのように相手の議論と向き合うとより噛み合った議論をすることができるのかについて知見を提示できるのではないかと考えました。そこで、本稿では、先日のJDA大会でのクリティークとの対戦内容を前提に、試合上どのように振る舞うのか、どのような準備を行うとよいのかについてのアイデアを提示したいと思います。

 

1.本稿の意義

他の理論的・概念的な整理に比較して、試合上実際に可能なアプローチである点に意味があると思います。また、検討する試合においては双方そこそこ高いバロットでかつポリシーの側が勝利している試合なので、少なくとも仮想敵を論難してTwitterで虚空に吠えている人や対戦して敗北している人に比べて、戦略が成功している内容なのではないかと思います。
 

2.本稿の限界

 クリティークの理論的な話は扱いません。あくまで実際の試合上、何をしたら良いのかな?が本稿で扱いたいことです。一方で、限られた試合の経験から導いているのでより広く経験が蓄積されることで異なる結論が導かれることはあると思います。例えば、論題の肯定(を妨げる行為)をしない?クリティークについてについては経験がなく扱うことができません。また、コミュニティのありかたについて何らかの政治的態度を表明するものではありません。
 

3.対戦概要

肯定側:ポリシーを提出。完全小選挙区制の一院にすることで責任政治の実現する。
否定側:クリティークを提出。ゲーム性批判、一院制について多様性が主要な論点であること、多様性に関する議論の難しさについて言及。

肯定側がクリティーク関連で使用したブリーフについては以下を参照。
https://note.com/zeit_geist/n/nf33e32a13079
 

4.対戦したクリティークの性質

対戦したクリティークの性質として、「ポリシーではないが論題との関連性を主張している(anti topical?なクリティークではない)」ことが指摘できます。否定側なりの論題理解に基づいた議論をしており、論題と全く関係ない話をしているわけではありません。そのため、あくまで普段行っている試合と同じ考え方をジャッジはすることができます(し、ポリシーの側としては要求するべきでしょう)。すなわち、「肯定側は論題の肯定をすること、否定側は論題の肯定を妨げることといったルール上の枠組みについては争いにならない」ということです。
そのため、肯定側の戦略の前提として、①ポリシーという枠組みにおいては論題の肯定ができていること、②否定側の勝利条件を満たすためには(論題の肯定を妨げるなら)、ポリシーと異なる枠組みによって判断されるべきこと、異なる枠組みにおいて論題の肯定が妨げられていることが示される必要がある、という2点が理解できます。
 

5.肯定側の採用する戦略

以上のクリティーク理解と整理から肯定側が主張すべき争点は主に以下の3点に分けられると思います。

 

①ポリシーにおいて論題が肯定されていることを主張する

クリティークの議論において判断がつかないときに肯定側に投票してもらうなどのために主張します。これを伸ばし忘れると、ジャッジにクリティークの議論だけで判定される恐れがあります。
 

②論題がポリシーにおいて論じられるべき理由を主張する

パラダイムの議論において肯定側優位のフィールドを作ることを意識します。論題に即した分析が行えると有利なのではないかと思います(クリティークのパラダイム論争は、論題から離れた空中戦をやることになるといった批判はこの点から当たらないと考えています)。詳細や成否についての判断は差し控えますが、例えば、今回の大会では、肯定側は否定側のクリティークついて以下のような対応を取りました。

  1. 一般的に政策について議論することは市民教育上重要であること(ゲーム性批判への応答です)
  2. 一院制の改憲原案が国会に提出されているなど、眼前の政策的な争点として一院制があり、その政策的な是非について理解を深めることが重要であること(論題に即してポリシーを論じるべき理由として提示しました。今思えば、論題提案も先の衆院選を前提に国会のあり方について議論してほしいといった内容の記載があったように思いますし、この辺りも利用できるかなと思います)。
     

③相手の枠組みにおいて論題が肯定されていることを主張する

パラダイムの議論において負けた場合でもせめて即否定側といった投票をされないためには、相手の土台の上でも論題の肯定が行えることを主張すべきかと思います。例えば、肯定側のアクションが否定側の提示する観点からも正当化されることや、否定側のアクションがむしろ否定側の提示する観点から望ましくないことなどを主張する(ポリシーにおけるターンアラウンドのように思っています)などです。
詳細や成否についての判断は差し控えますが、例えば、今回の大会では、肯定側は否定側のクリティークについて以下のような対応を取りました。

  1. マイノリティのこと考えているので批判が当たっていないこと(クリティークの批判はそもそも当てはまらないことを主張する)
  2. マイノリティに共感する/代弁するといった態度がマイノリティの声を殺す可能性があり危険であることを主張する(Kritik側の言説に潜む問題点を指摘する)
     

6.戦略上留意すべき点

以上の戦略を取る上で留意すべき点は主に、冷静な対話の形式を維持しようとすることだと思います。例えば、以下のような際に冷静な態度が試合を有利にすすめると思います。

 

①クリティーク理解の確認

そもそもクリティーク理解が誤っているかもしれません。ポリシー以上に議論の相場が成立していない以上、自分たちの理解、対戦相手の理解、ジャッジの理解がすれ違う恐れは大きいと思います。そのため、質疑等で立論の各分析の内容やその枠組について丁寧に確認していく必要があると思います。私達はクリティークが提出された場合は質疑前に準備時間を取りチーム内の認識を整理するようにしています。ここでクローズドで圧迫的な質疑を行ってしまうと、枠組みについて理解するチャンスを自ら放棄してしまう可能性があります(そしてすれ違いの悲劇が再度生み出されてしまいます)。
 

②相手に説得的な言質を与える可能性がある

対戦相手がコミュニティのあり方などの議論をする場合、(バックラッシュ的な言説をはらむ)感情的な応答は相手の言説の説得力を増す材料を提供するだけの場合があります。あくまで冷静な対話の形式を保ち、その態度からコミュニティ批判と向き合っていくほうが勝つことを考えるならば効果的だと思います(し、通常の言説空間においても、このような態度のほうが望ましいことは否定できないでしょう)。
例えば、コミュニティのあり方の議論を提示した側に対して、端的に「試合外でやれ」という言葉を発してしまうのは、その言葉の発し方やジャッジの受け取り方によっては排除的だと写りかねないと思っています。一方でポリシーの話を試合で出すということはポリシーの話をしたい理由があるはずで、あくまで冷静な態度を崩さず、相手の論証の瑕疵を指摘し、ポリシーの話をすべき理由を論理的に語るのが良きディベーターのあり方なのではないでしょうか。
 

7.最後に

あくまでゲームとしてのディベートが好きなら、TwitterやFacebookなどの場外での乱闘に明け暮れるのではなく、肯定側第二立論で何をしたら良いかな?どんなプレパをしたら良いのかな?ということを考えるほうが時間の使い方として望ましいと思います。(コミュニティについての議論を放棄せよ、ゲームとしてのディベートにばかりこだわることが望ましいとは思いません)。また、ディベートは政策が議論されるべきだという前提に基づいて思想についてプレパをしないのは、ポリシーディベートに賛同的なジャッジにしか刺さらない議論をしますと宣言しているようなものです。クリティークに好感を持つジャッジもおり、クリティークが二度と出てこないと言えない以上、あくまで広く勝ちを拾おうと考えるのであれば食わず嫌いせず思想についてもプレパすべきではないでしょうか。

以上、本稿が皆様の参考になりましたら幸甚です。

 自分の身の回りに候補作を持ってる人が複数いた、候補作をプレゼントでいただいた、そもそも候補作を持っていた、などの理由から、候補作がだいぶ手に届きやすい年だったこともあり、せっかくなら10作品ぜんぶ読むか~~という決心に至った2020年本屋大賞です。

 結論から言うと、10作品ぜんぶは読めなかったのですが、読めた8冊分の感想を書いておきます。

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感想


 

伊予原新『八月の銀の雪』

 

○東大の理学系研究科の博士課程を出たひと。専門の惑星物理学、博士課程後も研究職に従事していたキャリアを存分に活かした短編5作品。どれも知的好奇心をくすぐる。そして、5編とも締め方が綺麗。学問の面白さを発信するのにこのようなやりかたもあるのだなと思い知らされたし、簡単でなかったキャリアを積み重ねてここまで至った著者に敬意を抱く。

 

●登場人物について、「その設定の人間がそんな言葉を知っているだろうか、用いるだろうか」と思ってしまう節がいくつかある。それは著者の頭の良さが地の分までよく染みわたっているということでもあるのだが、キャラクターまでそれに塗りつぶされてしまっているようにも思えてしまった。また、今回の候補作は比較的短編集が多いのだが、他の作品はどれも短編間に関係があったり最後に綺麗にまとめたりといった形になっている。対して、もちろん、「この星と科学」というテーマは一貫しているものの、そのような工夫のない本作は、審査員の印象に残りづらいかもしれないとも感じた。

 

 

宇佐見りん『推し、燃ゆ』

 

○純文。非常に醜く、美しい。ちょっとした小物の配置やメタファーの扱いなど、モノも心理も描写の精緻さが極まっている。

 

●本屋大賞をとるような作品ではない。これは賞の性質。おそらく多くの人が主人公に共感できない。それは著者の力量不足などでは断じてなく、むしろ著者は共感できない存在として主人公を描いているように思われる。共感できない不連続な他者性。これは非常に重要な主題なのだが、本屋大賞においてはウケづらいと思われる。

 

 

加藤シゲアキ『オルタネート』

 

●他作品に比べて、文学として不出来。アナロジーが不適切で「それとこれ、対応してなくない…?」とか、文の構成が「順序逆の方が自然じゃない?」とか、そういうところにいちいち反応してしまって、思考が停止してしまう。加えて、最初に1ページで目次的に登場人物の紹介がされるだけで、特に説明なくいろんな人物が動き始めるので、キャラクター像や人物関係を脳内である程度確立させるまでは本当に読み進めづらい。

 

○一方で、起きている出来事は非常に面白い。SNSでの情報開示という現代的要素を絡めつつの王道学園もの。なので、個人的には「映像作品になると良さそう」という感想を抱いた。映画化やドラマ化に期待。あるいは、『ワンポーション』部分のスピンオフとかも、とても面白そう。

 また、本屋大賞となると、すべての作品を最後まで読んだ人が投票するというのが審査のルールだ。本屋や図書館で「どれ読もっかな~」のテンションで手に取ると、序盤の読みづらさで多くの人が脱落するだろうが、最後まで読むと「面白かった」と感じる人が多そうである。著者の話題性もあって、入賞の可能性はあるのではないかと勝手に考えている。

 

 

凪良ゆう『滅びの前のシャングリラ』

 

○ハイデガーの言葉を借りて言うところ、「死への存在」が巧みに描かれている。「隕石が降ってきて1か月後に世界が滅びます」という設定自体には目新しさはないかもしれない。が、その世界が、特に隕石云々の前から既に生活が滅んでしまっていたような人にとってはどのように映るのかというところに着目したのは斬新。そして、凪良ゆうはそのような人々の描き方が抜群にうまい。

 

●いくつかの要素は、提出されたものの回収されることなく終幕している。チェーホフ的に言えば、「銃が出てきたけれど、発砲されていない」ような状態。これに消化不良感を抱く気持ちもわからなくはない。しかし、本作は唐突な滅びという不条理がテーマであり、そしてそれが既に滅びと呼べるようなものを迎えていた人にとってどう映るかという点を描いたものである。したがって、銃が撃たれないままに物語が終わるというのも不条理の一つの描き方であるし、それを見て消化不良と感じるのも隕石によってはじめて滅びを感じるような人々の目線に過ぎないように思われる。したがって、私はこれを理由に評価を下げることはない。

 強いて言えば、昨年の受賞作『流浪の月』と本作『滅びの前のシャングリラ』との間に出された作品である『私の美しい庭』があまりにも良すぎたので、自分の中でハードルが上がってしまった面があるかもしれない。兎角、文句ないっす。

 

 

伊坂幸太郎『逆ソクラテス』

 

○学校空間や教師-生徒関係をベースにして他者理解を描く短編5作。そして、それら短編が微妙にリンクしているのも秀逸。「敵は先入観」というコンセプトや、「ぼくは、そうは、思わない」等それを体現するための具体的指針などが、非常に明瞭でわかりやすく打ち出されており、ぜひ児童生徒に読んでほしい作品(入試問題で複数回引用されているのも納得)。

 生徒目線の教師が、絶対的権威というよりも、超越の対象や友達に近い存在として描かれており、教師の専門性の議論(full professionからsemi professionへの移行、とか)との関係で考えてみると面白そう。

 

●言うことないっす。

 

 

伊吹有喜『犬がいた季節』

 

○高校を舞台に、そこで過ごした犬のコーシローを介した、王道的なアオハル。昭和の終わりから平成初期を描いており、端々にノスタルジーを感じる人も多いかもしれない。各章、基本的に非常に切ない。つらい話も少なくないが、どれも読み難さや後味の悪さを感じさせるわけではなく、自然とページを捲らしめる。それもまた「犬がいた」ことの機能の一つなのかもしれない。私は第4章「スカーレットの夏」が一番好き。つよい。

 

●終章「犬がいた季節」での閉じ方があまり好きにはなれなかった。それまでの章の登場人物が勢揃いするのは短編集の王道的な手法だが、その割にはカタルシスをあまり感じさせない。ポっと出で終わっており、個人的には「描くならちゃんと描いて、そうじゃないなら出さないでいい」と思ってしまった。それだけ、読者に登場人物各人を大事に思う気持ちを芽生えさせるだけの書き込みが各章で為されていたということであるし、終章直前の第5章の終わり方がすでに十分に綺麗だったということでもある。

 

 

町田そのこ『52ヘルツのくじらたち』

 

○困っていても声を発することが難しい(いわゆるサバルタン[1]的な)存在の問題を、「52ヘルツのくじら」というエピソードにひっかけてわかりやすく表象。そして、この問題への立ち向かい方として「見えなくても目を凝らす、聞こえなくても耳を澄ます」という非常に大事なことを明確にメッセージとして打ち出していた。

 装丁の仕掛けも面白く、カバーの折り返しの部分に耳が描かれていて、そこに「5」「2」と書かれている。

 

●抑圧された人々の描き方、そこに小説的な展開を絡ませることについては、昨年の受賞者でもある凪良ゆうが上手すぎたように思われる。

 また、主人公「キナコ」は「アンさん」と「52」と「自分」とを微妙に重ねるのだが、「微妙」のままにしてあり、あまり深くは描かれない。そしてそこにさらに「くじら」の意味を重ねていくのだが、本のタイトルにも含めているということもあり、個人的にはもっと「くじら」の位置づけを書き込んでほしかった。扱うテーマや筆致がよかったからという賛辞の意味も込めつつ、このへんをもっと描いて あと100~200ページ読みたかった。

 

 著者自身が、本書では現実の問題を現実として扱いたかったと述べていたので、あえて現実的な視点からの問いも投げかけてみる。本書の立場には、「人びとの認識によって社会問題は問題として現れてくる」という構築主義的な捉え方に対して投げかけられてきた批判がそのまま当たってくるようにも思われた[2]。本書の立場は、先にも触れた通り「見えなくても目を凝らす、聞こえなくても耳を澄ます」というものであった。これが大事であることは確かである。一方で、このような受動的な姿勢でよいのだろうか? という批判が、それである。本作のケースでは、たまたま「52」が「キナコ」の家まで来たからよかったが、多くの場合はそうでない。果たして、本書からメッセージを受け取った読者の私達は、そのメッセージに忠実に従って「目を凝らす」「耳を澄ます」だけでよいのだろうか。現に、著者自身、この問題を伝えるためにこうして本を書くという、「目を凝らす」「耳を澄ます」以上のアクションを起こしていることが、「目を凝らす」「耳を澄ます」にとどまることの限界を示してはいないだろうか。

 ……「別にとどまるなんて言ってない、“まずは”目を凝らす、耳を澄ます、それが大事」ということで回答にはなるのだが、著者自身が現実的に問いを投げかける作品を志向したと言っていたので、それに乗ってみた次第である。

 

 

深緑野分『この本を盗む者は』

 

○今回の候補作で唯一のファンタジー。叙述が言葉巧みに行われている。本で本の世界を描くというメタ的な構造が物語に深みを生んでいる。「深冬」が「本の呪い(ブック・カース)」が1つ終わるたびに「真冬」との別れを惜しむように、読者の私達もこの本の読了とともに「深冬」たちに会えなくなることに寂しさを覚える。そして、あらためて物語という虚構について、考えさせられる……。本や物語への向き合い方について、著者の世界が自由に、本当に存分に自由に描かれている。

 

●『オルタネート』に近い感想。特に前半を読み進めるのがしんどい。現実と離れた世界の物語であるにも拘らず、あまり説明は多くないので、その世界に入り込むまでにだいぶコストがかかる(主人公の置かれた状況を追体験させる狙いなのかもしれないが)。先に「存分に自由に描かれている」と評価したが、これは形式面ではむしろ障壁に映った。『オルタネート』のところでも書いたが、最後まで読み切ると非常に面白いという感想のほうが大きく残るので、前作最後まで読み切るという賞選定においては高く評価されそうにも思う。

 また、これまでも『バクマン。』や『NEW GAME』などの作品を読むにつけ いつも思っていたことではあるが、作中で作品を描くということの難しさを改めて感じさせられた。まず、作中作を魅力的に描くこと自体が難しい。さらに、なかなか認識と理解が追い付かない世界(=主人公たちの世界)に、さらにまた別のフィクションの世界(=本の中の世界)が混じりこんでくるという構造なので、読者は置いていかれているような感覚に陥ってしまう……私の読解力が低いだけなのかもしれないが。

 

 

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予想

 

感想をメモしたことで本稿の役割は終わりなのだが、せっかく10作品中8作品も読んだわけなので、勝手気ままに受賞予想。

 

*近年の受賞傾向

 辻村深月『かがみの孤城』(2018年)、瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』(2019年)、凪良ゆう『流浪の月』(2020年)と、何らかの属性により生きづらさを抱えた人々に焦点を当てた作品の大賞受賞が連続している。

 また、序盤から読みやすい作品が入賞している傾向が強いように、個人的には思われる。今回の候補作も、候補にあがるだけあってどれも面白いのだが、「がんばって読み進めて最後に爆発する」タイプと「ずっと読みやすく面白い」タイプとがあり、後者の方が評価されるのではなかろうか。

 

*「読書メーター」等での評判

 「読書メーター」はじめ、読書記録・レビューのためのサービスがいろいろ発展しており、そこでは「○○で第1位!」等の称号が本に付されることがある。ただ、「読みたい本ランキング第1位」はあまりアテにならないと考えている。評判、話題性や人気で選ぶ賞ではなく、全作品を最後まで読んだうえで投票するという本屋大賞の性質のためである。『犬がいた季節』や『お探し物は図書室まで』が「読みたい本ランキング1位」を獲っていることよりも、『52ヘルツのくじらたち』が「読書メーター OF THE YEAR」(最後まで読んだうえでのレビューでの評価)を獲ったことの方が、より本屋大賞という性質に近い気がしている。

 

*そのほか賞

 それよりも本屋大賞に近い性質の賞として、紀伊國屋の「ベスト本」など、各書店の書店員さんが投票して選定する賞がある。今回は、紀伊國屋「ベスト本」を『滅びの前のシャングリラ』が獲っており、このことから本作が本命とされることが多いが、『52ヘルツのくじらたち』も「未来屋小説大賞」を獲っており、このあたりも注目に値する。

 『この本を盗む者は』も、「ベスト本」の3位に食い込んでおり、人気がうかがえる。ただ、本書は人を選ぶ――挙げる人は1位にするが、1位にしない人はそもそも3位までに挙げない――ような気がしている。本屋大賞は、各書店員さんの投票が、「1位3点、2位2点、3位1.5点」に換算され、1位から3位までの点数にあまり差がない(3位を2つとれば1位と同じ)ため、このように人を選ぶ作品よりは広く評価される作品のほうが受賞しやすいと予想する。特に今年は、2018年の『かがみの孤城』のようにダントツ抜きんでた1作品があるというわけでなく、全体的に良作が多い、みたいな感じなので、特にそうなるのではなかろうか。

 

 

……以上から、私の予想、上位からトップ3はこちら。

 

  • 1.町田そのこ『52ヘルツのくじらたち』
    • 上に見たような評判と受賞傾向から。
  • 2.凪良ゆう『滅びの前のシャングリラ』
    • 正直こっちが1位でもおかしくないとは思うし、初の2年連続受賞してほしいけど、『くじら』かなぁ……。
  • 3.伊吹有喜『犬がいた季節』   
    • 『この本を盗む者は』や『八月の銀の雪』とかより 感動ものがウケやすそうかなと。

 

 

 

個人的な投票

 

 個人的な投票(自分が書店員だったとして、「売りたい本はどれですか!」と聞かれたときにどの順序にするか……全作品読めてない時点で投票権はないのだが)は、以下の通り。

 

  • 1.伊坂幸太郎『逆ソクラテス』
    • 多くのこどもたちに読んでほしい。
  • 2.凪良ゆう『滅びの前のシャングリラ』
    • やっぱり巧いっす、初版付録の『イスパハン』まで含めて高評価。

 

 

勝手にいろんな感想書きましたが、良い作品にたくさん巡り逢えて幸せです。

作家のみなさまにリスペクト。ありがとうございます。

 

 

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(2021/04/14 15:20更新)

町田さん、おめでとうございます~~🐋✨

『52ヘルツのくじらたち』の大賞受賞、『犬がいた季節』『逆ソクラテス』あたりの高評価は予想どおり🙌

一方で『滅びの前のシャングリラ』は思ってたより順位低かったですね…笑。信者になりすぎてしまたったか。

読めてなかった『お探し物は図書室まで』が第2位ということで、こちらも読んでみたいと思います。

 


[1] 単に抑圧されているにとどまらず、自ら声をあげて問題を指摘するような言説を立ち上げることが困難であるような存在。

[2] 草柳千早(1994)「『問題』経験とクレイム 構築主義の社会問題研究によせて」『年報社会学論集』Vol. 7, pp. 167-178.

https://www.jstage.jst.go.jp/article/kantoh1988/1994/7/1994_7_167/_article/-char/ja/

(※執筆開始:10月16日)

 

 昨晩、劇場版『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観てきました。今日から鬼さんたちに占領されちゃうからね。最後に観たのはたぶん『SHOROBAKO』なので…10ヶ月ぶりくらいの映画館……? 全然行ってないのに、シネマイレージ会員期限が切れていました。悲しい。

 個人的な感情としては、ホッジンズの「大馬鹿野郎~~!」よろしくギルベルトの振る舞いに割とずっとキレていたのですが、それはさて置きやはり名作に違いないと思いました。

 さて、本稿では3部構成で、この作品について言葉という観点から考えたことを書いておきます。第1部は花について、第2部は記憶について、第3部は文字についてです(第1部は単純に調べたこと、第2部は指導教官の研究領域ゆえ授業でいろいろ文献を読むのでそれを踏まえてのこと、第3部は自分の研究領域ゆえいろいろ読んで考えたこと、といったところです)。

 

1.花と言葉――名

2.記憶と言葉――花火

3.文字と言葉――グラマトロジー

 

 

 

 この作品において花に着目することは恣意的な切り取りではありません。さまざまな場面で強調して描写されていることに加えて、登場人物たちも基本的にみなその名前に花を冠しています。この第1部では、羅列的になってはしまいますが、この劇場版において、主に花言葉という観点から気づいたことをメモしておきます。なお、花言葉やそのほか植物の性質を調べるうえでは以下のサイトを利用しました。

 

*   ギルベルトが、紫のパンジーを見ながら「ヴァイオレット……」とつぶやくシーン。

 花言葉という観点では、個人的に最も印象に残ったシーンでした。紫のパンジーの花言葉は、「あなたのことで頭がいっぱいである(You occupy my thoughts.)」とのこと[1]。うわぁ~~、そりゃあ「ヴァイオレット……」ってつぶやきますわな! そもそもパンジーという名前がフランス語のPanséから来ているらしく[2]、「思考」や「考え」と縁の深いとみなされている花なのですね。そういえば『ハムレット』でも出てきた記憶があります。物想いの花よ、って感じで。

 

*   ユリスの部屋にあった花。

 目につきやすかったサボテン。こちらは「枯れない愛」[3]

 そして黄色やオレンジの薔薇は「友情」や「絆」という花言葉を持っています[4]

 どちらもユリスに絡む、重要な概念を表象していますね。

 あとは、この2つと並んで窓側に紫色の花が、そしてベッドを挟んで反対側に赤?っぽい花が確認できるのですが、これらが何の花なのかは、私の知識と1回限りの視聴では判断できませんでした。また観たときに考えるわ。

 


[5]

 

 また、白い薔薇も出てくるシーンがあった記憶があるのですが、調べてみたところ、どうやら薔薇は本数によって意味が変わってくるらしいのです。おそらく10本前後だったかとは思うので、推測の域を出ないのですが見てみると、白薔薇は9本で「永遠に一緒にいたい」、12本で「不変の愛」とのことだとか[6]。つよい。

 

*   父、兄、弟、ブーゲンビリア。

 父とともに歩く幼き日のブーゲンビリア兄弟。お父さんが「うちの花だ」とブーゲンビリアの花を指さします。ブーゲンビリアは、一般には「おまえは魅力に満ちている」、そしてネガティブな意味としての「薄情[7]」と、二面性のある花言葉を併せ持っています。父は、ここで何を思って「うちの花だ」という科白を発したのでしょうね…。

 ところで、この二面性は、兄弟の二人に重なったりするのでしょうか…? 考えすぎかな。

 また、ブーゲンビリアは、剪定せず放置するとトゲだらけになってしまう植物だと言います。勝手ながら、今作のギルベルトのことを思い浮かべてしまう自分がいます。

 

💡花言葉に関しては、以下が自分の中で一番「アツいな」と感じた点です。

*   世代を超えるマグノリア家。

 マグノリアの花言葉は「持続性」だといいます[8]。アニメ10話のときには、毎年誕生日に手紙が50年ずっと届き続けることや、この話のタイトルになっている「愛する人は ずっと見守っている」を表象しているのだろうと思っていました。それに留まらず、つまりアン・マグノリアという一個人・一世代の内部の物語に留まらず、孫のデイジー・マグノリアまで世代を超えた継続性をもたらしている。この一貫性はとても美しいですね。

 

*   「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」

 名前にも意味が込められているよね~という以上のような話から派生して、当然主人公の名前にも注意が向きます。エヴァーガーデンについて、Everということだから、これもまたマグノリアよろしく「不変」に関係するのかな、とかと思っていました。

 が、この折に調べてみたところ、フランス語源で、「Love of Humanity」を意味するという説があるといいます[9]。「人間愛」や「人類愛」、あるいは意訳して「普遍愛」と呼ばれる類のものですね。なるほど。

 

ところで、公式HPやパンフレットに載っている、この映画のコンセプトを今一度ここで確認しておきましょうか。次のようにあります。

 

「【不変】で【普遍】の愛をあなたに――。」

 

固よりの主人公ヴァイオレット・エヴァーガーデンと、今作のもう一人の主人公デイジー・マグノリアのこの交わり方、めちゃくちゃ素敵じゃないですか??

 

 

 

 

 

 花、というところで関連して言えば、本作品は花火のシーンが、とても綺麗で美しく印象的でした[10]。ただ、このシーンを我々に印象づけるのは、その美麗さだけでなく、その長さによるところも大きいと思います。ここでの花火のシーンは、どのような機能を持つのでしょうか。

 この花火、なにを記念してのものであるのか物語中では明言されていません。電話のための電波塔の完成を祝ってのものなのかもしれませんし、単なるお祭りだったのかもしれません。ただ、花火は、災厄の終焉を告げるとともにその惨禍の中で亡くなった方を弔う機能を持つことは特筆に値するでしょう。それがわかりやすい例が、奇しくもこのコロナ禍において再注目を浴びたカミュの『ペスト』ではなかろうかと思います。ペストの流行が終わったとき、花火があげられ、モニュメント(記念碑)が立てられました。今もヴェネツィアとかではペスト終焉を記念しての花火を始原とした夏祭り・花火大会が続いているという話も聞きます。『ペスト』の主題は、それでも不条理は続いていくというところにありますが、ひとまず社会的にはあの花火の時点でペストは「終わった」と見做されるのです。一瞬でなく、あれだけの長い時間を使っているところもまた、弔いの意が込められているのではないかという推察を働かせます。

 では、あの物語の中では、なにが終わりなにを弔っているのか。一つには、大きな戦争が終結したことを指摘できるでしょう[11]。日本でも、たとえば長岡花火大会は、東京大空襲の中でも被害の大きかった1945年8月1日空襲からの復興を目指して、終戦の翌年、46年の8月1日から始まったといいます。そうして花火はひとつの終わりと始まりを告げるのです。もちろん惨劇を忘れるわけではないけれども、人々のつながりが修復され始め、もとの暮らしが取り戻されるようになってくる。『ペスト』の言葉を借りれば、肯定的な意味で「忘却」する。その点で、エカルテ島のおじいさんから出る「かつて(・・・)()ライデンを憎んでおったよ」という科白や、ライデンを敵としていた地でヴァイオレットとギルベルトが暮らすようになるという展開は、重要だと思うのです。140分の今作の序盤では、まだカトレアさんが条約締結のために出張していることを思い返せば、なおさらです。

 

 先に、肯定的な意味での「忘却」と書きました。実際、個々人レベルの記憶は失われていきます。ヴァイオレットは、少なくともドール第一人者であった頃に比べて、あまり有名でない存在となってしまいます。少なくとも、デイジー・マグノリアはその名を知りませんでしたし、エカルテ島の郵便局員さんもデイジーの口からヴァイオレットの名が出た時に驚いたようなリアクションをしていました。モニュメントと化したCH郵便社には、辛うじて社長ホッジンズの記録はあるものの、ヴァイオレット含め個々人のことまでは、写真はあるくらいで細かく記録はされていない様子です。個々人の記憶の集積(collected memory)は、失われていくのだと、そう言えるでしょう。

 一方で、社会的に方向づけられた記憶としての集合的記憶(collective memory)が残されることは注目に値します。何によってかというと、まさに先に触れた花火をはじめとしたモニュメント等によってです。夏祭り・花火大会が続くことによって、仮に祭りの参加者全員がその所以を知らなかったとしても、ペストなどの記憶は社会的に保持されてゆくことができるのです。この映画の中の花火によって、戦争の記憶が集合的に刻まれているのではないかということです[12]

 この点に追加して、やはりどう考えても異例に長いと言わざるを得ない尺の花火シーンを内包したこの映画それ自体が、メタ的に現実世界に対して集合的記憶の装置として機能するはたらきを持っているのではないかと、極めて勝手に捉えています。何についての記憶か。京アニの第一スタジオの事件です。この件について、勝手に語ることは正直あまり気が進みませんし、勝手に「あの事件からの再出発を謳ってるんだよね!」とか語ることもできません。また別の機会に書くことになると思いますが、死者を前にしては殊に言葉に慎重にならなければならないと思っています。ただ、こうした弔いとしての花火のシーンを想起しつつ、脚本の吉田玲子さんの次の言葉から受け取るメッセージは大きいように思いました。

 

傷ついたからこそ、理解できること、わかること、共感できることもたくさんあると思います。ヴァイオレットやギルベルトや、手紙を依頼する人々のように。それぞれの傷の痛みが他人へ向ける刃になるのではなく、自分と周囲の人を包む温かい空気になることを切に願っています。

 

 ヴァイオレットの名がそうだったように、個々人レベルの名は、いまを生きている人が亡くなるとともに失われていく危機にあります。そして、『ペスト』の主人公リウーの妻の死がそうであったように、理不尽な出来事は今後も続くでしょう。しかし、この映画があの事件を、そして火中から奇跡的にサルベージされたこの作品に携わった人々のことを、社会に刻みつける集合的記憶の装置としてはたらくのではないかと、極めて勝手に思うところです。

 

 

 

 今作では、手紙すなわち文字と、直接の口頭伝達や電話すなわち声とが対置されて描かれています。そしてここには、文字/声、すなわちエクリチュール/パロールと、非現前/現前とを重ねるという、兼ねてより指摘されてきた形而上学的な構図を見て取ることができるように思います。

 たとえば、ヴァイオレットの台詞。ホッジンズに対しての「思っても叶わない願いはどうすればよいのでしょうか」、ディートフリート兄さんに対しての「死ぬまで忘れません」といった言葉には、「相手の現前がなければ叶わない」「自分の現前がなければ記憶も失われる」といった形で、現前性への強い意識が見て取れます。また、ユリスの最期、友達のリュカとの会話の場面では、手紙=文字の限界を示すとともに、アイリスの電話に対する「こいつも悪くねぇな」の科白に象徴されるように、声の優位性を認めるような形になっています[13]

 文字が非現前の側に置かれるのは、文字が書かれるときには読む者が、読まれるときには書いた者が現前していないことによります。たとえば、作中からいくつか抜き出すと、次の表のように言うことができるでしょう。

 

 

 先に、電話のくだりを引き合いに出して「声の優位性を認めるような形になってい」ると書きましたが、一方で上に見る死者の絡んだやり取りのように、文字でなければ伝えることができない領域があることもまた確かです。この領域を明らかにすることを通して、この映画は、文字の復権を図っていると言えるのではないでしょうか。

 

 デリダは、声もまた文字と同様に、その記号が用いられた「痕跡」に、「絶対的過去」に思いを馳せることを強いるという点でどちらも「遺言的」であると主張しました(Derrida 1967=1972, 137-142)。つまり、声の優位性を論駁することで、文字の復権のようなものを図ったと言えます。

 対して、この映画は、声と文字との間にある差異を認めつつ、それぞれの良い点を見いだして組み合わせて使っていこうという方向で、文字の復権を見るものと言えるでしょう。それが端的に表されたのが、最後のデイジー・マグノリアが両親に手紙を書くシーンと、そこでの「手紙なら面と向かってでは恥ずかしいことでも伝えられる」みたいな科白[14]だと思います。ここは、割と明示的なメッセージとして打ち出されていたように感じました。

 

 ただし一方でまた、本作の世界では、文字が完全に声に対して劣勢となり、背景に退いてしまったというわけでもなさそうです。序盤のデイジー・マグノリアの父の「昔はみんなが文字を書けたわけじゃなかった」という発言や、終盤でデイジー・マグノリアが自らの手で手紙を書いていることから、文字はむしろ広まったとも言えるでしょう。それにより文字に係る能力がコモディティ化したため、ドールという職の価値が薄れてしまったようです。

 この背景には、印刷術なども含んだ、文字および画像による記憶の進歩を見て取ることができるように思います(Le Goff 1999, 133)。この、「記憶の爆発」とも表現されるような集合的記憶の変化の時期における重要概念が、「戦没者のための記念碑の建立」と「写真術」であるとされます(Le Goff 1999, 145-6)。「記念碑」については、第2部で既に触れました。「写真術」について考えると、アニメ5話のシャルロッテ王女のお部屋に飾られていたのは肖像「画」でしたし、少佐の写真が残っていないからこそヴァイオレットは彼の瞳をそのブローチに見ていたのでしょう(そのほうが画的に美しいという演出上の理由もあるかもしれませんが)。しかし一方で、映画の頃になるとCH郵便社博物館にはホッジンズ社長や従業員のみなさんの写真があったことから、ちょうど電話と重なるように写真も広がった時期だったのでしょう。

 

 さて、その後はというと、Le Goffの論じるところによれば、コンピュータの登場などによって人間の手には簡単に収まらないほどの記憶の溢出が起きると言います。この映画の中では、まだそこまでの段階には至っていません。しかし、上に見たような声と文字との歴史をたどっていくと、この先にあるのは今の私達の生活であるようにも感じられます。

 たしかに、敢えて手紙を書く習慣を持つことは、この映画の世界以上に少なくなってきているでしょう。また、このような文字ばかりのBlogよりも、今では文字で書けばいいようなこともYouTubeに動画としてupしたほうが視聴数が増えるという傾向も耳にします。

 一方で、メールや、LINE、Twitterに代表されるようなSNSなど、文字を基調としたツールが発展してきたことも事実です。このあたりの事情は、この映画ではまだ描かれない未来の話であり、それでいてLe GoffやErllといった記憶とメディアとの関係を論じる思想家たちも(新しすぎて)フォローしきれていない部分であるように思われます。これから考えてみたいとともに、みなさんの考えを聞いてみたいとも思うところです。

 

 非現前の文字と、現前の生の声という構造から考えた時に、気になっていること、残された課題が一つ。ヴァイオレットからギルベルトへの最後の手紙、文字数からして「画面では映っているけれど音声としては発されていない」文章があるはずなんですよね(私の勘違いだったらごめんなさい……)。ここにどんな機能があるのかなと、とても気になっています。即座にあの世界の文字を読み解けるほどになっていなかった自分を恨む思いですが、これゆえにもう1度見たいという気持ちと、もう1回見ただけでその一瞬で理解できる自信もないという気持ちとで、揺れています(修論書け)。

 

 話が二転三転と脱線しましたが、要は、書き手or読み手の非現前ゆえの、手紙-文字のアドバンテージを見て取ることができるように思いました、ということで。

 

 

参考文献

  • Camus, Albert. (1947). La Peste.
    (邦訳:カミュ, A. 宮崎嶺雄 訳(1969).『ペスト』新潮文庫)
  • 千々岩靖子(2010)「バルト=カミュ論争再考:『ペスト』における歴史記述の問題をめぐって」『Stella』Vol. 29, pp. 45-58.
  • Derrida, Jacques. (1967). De La Grammatologie. Paris, Les Édition de Minuit.
    (邦訳:デリダ, J. 足立和浩 訳(1972).『グラマトロジーについて』現代思潮社)
  • Le Goff, Jacques. (1996). History and Memory. Columbia University Press.
    原典PDF: https://b-ok.cc/book/1131561/5f1a0e 
    (邦訳:ル・ゴフ, J. 立川孝一 訳(1999).『歴史と記憶』法政大学出版局)

 


[1] Autumn, S. D. The Mysterious Language of Flowers.

https://www.wattpad.com/419116587-the-mysterious-language-of-flowers-you-occupy-my

[2] http://www.smartgarden.co.jp/special/032001/panji2.html

[3] https://horti.jp/4184#:~:text=%E3%80%8C%E6%9E%AF%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E6%84%9B%E3%80%8D%E3%80%8C%E7%87%83%E3%81%88%E3%82%8B,%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%8C%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

[4] https://www.i879.com/hanablog/tag/%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%90%E3%83%A9/#:~:text=%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B8%E8%89%B2%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%A9%E3%81%AE,%E3%81%A8%E3%82%82%E8%A8%80%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

[5] 映画パンフレット、吉田玲子のページ。

[6] https://kurashi-no.jp/I0029125

[7] ブーゲンビリアの花に見えている部分は実は苞なので、「花を差し置いて目立つ」というところから来た説や、英語で「paper flower」と呼ばれるようにペラペラに薄い花であるところから来た説があるようです。

[8] https://lovegreen.net/languageofflower/p251263/#:~:text=%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%8A%B1%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AF,%E3%80%8C%E8%8F%AF%E9%BA%97%E3%80%8D%E3%80%8C%E5%A3%AE%E5%A4%A7%E3%80%8D%E3%80%82

[9] 「Name.org」の「Evergarden」のページ。

“the name Evergarden is of French origin and means "Love of humanity".”

https://www.names.org/n/evergarden/about (2020.10.16 最終アクセス)

[10]  ところで、花火にも花言葉があることを、この折に調べてみて初めて知りました。曰く、「口実」だと。一体、なにを意味するのか、それともしないのか。

[11] 上の『ペスト』の例に対して、ここで戦争を取り上げるのは、離れすぎているのではないかと思われるかもしれない。しかし、カミュはペストにナチスを重ねて『ペスト』を書いたことが知られている。カミュ自身が次のように述べている。

『ペスト』がいくつかの射程で読まれることをわたしは望みましたが、しかしながらこの小説は、ナチスにたいするヨーロッパの抵抗の闘いを明白な内容としています。(千々岩 2010, 50)

[12] とはいえ、この祭りや花火が今回はじめて(少なくとも戦争中はそのような状態ではなかったでしょうから)だとして、今後も続いていき集合的記憶の装置として機能するかどうかはわかりません。今回限りかもしれないからです。推測の域を出ません。

[13] デリダに言わせれば、音声中心主義とロゴス中心主義とが結節した地点といったところでしょうが……。

[14] すみません、一語一句は覚えていません……。

 今回は寄稿をいただいたものを載せます。

 前回の記事と同様、クォータ論題を対象としたものです。が、この寄稿は、当該シーズンを一ジャッジとして過ごした私に対して、一選手として過ごした【まろ】さんが、試合を通して考えたことということです。コンパクトにまとまっていて偉い……(自戒)。

 では、以下本文です。番号の脚注は原注です。X, Y, Zの脚注は私が思ったことを勝手に書き足したものなので無視してください。

 

 

○概要

まろです。ブログを作るのは面倒なので、他人のブログを間借します。最近私生活で危機的状況にあり、その結果として友人と話す機会を得たのですが、会話の中で秋のJDA大会について考えることもありました。そこで本稿では、去る秋JDAで対戦した相手や感じた違和感、それらを解消するためにどのような議論ができるのだろうかといった点について記載しようと思います。実際にどういう試合をしたのかどういった判定がなされたといった点については今は関心がないので、そうした事実に誤りがあるとしても、気にしないでいただくしかありません。

 

○対戦したクリティークの概要

対戦したのはITB-在宅チームのもので、「肯定側の男女二元論的なクオータが、トランスやxジェンダーなど多様な性の存在を排除してしまうこと」を批判の対象としていました。そして、ジャッジの投票はディベーターの思想を形成するので「多様な性別の排除」をする言説を肯定してはいけないことということが論じられていました。

 

○対戦して感じていること

対戦して感じていることの第1は、その批判の強固さについてです。クオータが戸籍上の男女に依拠した政策である以上、多様な性のあり方を排除することは否定し難く、欺瞞を含む政策枠組みではありそうだと考えました。例えばクオータを性自認に基づくとしても男女に区分けを増やすし、戸籍上の性別の選択肢を増やすというのも多様な性のあり方を完全に網羅するとは考えにくいのです。

 一方で、第2の点として、メリットへの反論がない以上、欺瞞的な枠組みの中で救われる人々が存在することも否定されていないと考えています。

 これらの2点を踏まえてみたときに、第3の点として、欺瞞的な枠組みの中で救済される人と排除される人の比較がなされていないのではないかと考えました[1]

 

○肯定側の思想と否定側の思想は排他的であったのだろうか

この点について私はどうにも説明可能であろうと考えています。例えば、私達の肯定側は重要性において、男女に限定せずあらゆる格差に対する機会平等に言及する資料を使用してクオータを正当化しようとしました。ベースにあらゆる社会の不平等に対する怒りがあって、その結晶の一つとして、クオータが存在しているわけです。否定側も多様な性が対等に扱われていないことを問題視しているわけで、とても抽象的な段階において、否定側と肯定側はかなり似たような思想に基づいているのではないかと考えています。(このあたり、私は丁寧な検討をしたわけではありませんから、論理や思想をよく扱う人からすると見当違いのことを言っている可能性は十分にあると思いますが、それは私にはわかりません。)[X]

 

○何が排他的なのか

このように、原理的にはそう対立的でなかったはずなのに、批判が強固に思えるのは、男性中心主義的な現状の不正義を解決したいという思想そのものというより、肯定側の具体的な政策が「性別の書かれた」戸籍制度に根ざした制度であることが原因ではないと考えています。思想それ自体よりもそれを具体的に実行しようとする政策が排除を生んでいるということです[2][3]。そして思想そのものというよりも政策同士が排他的である以上、具体的な政策の提示によって対決したほうがよいのではないかと考えました。例えば「戸籍から性別の項目をなくす」というカウンタープランを提示するなどです。なぜ、具体的な政策において対決したほうが良いと考えるかというと、とても原理的な次元からすると肯定側と否定側の思想は共通する点が多いから、肯定側がそういう次元にふんぞり返って主張すると、あまり否定側の主張があたっていないように感じられてしまうからです。あくまでもその政策の効果を対決軸にしたほうが、明確に感じられるということです。[Y]

 

○排他的にしてその先

肯定側と否定側の対立が政策の提示により明確になったことで、どちらが優先されるのかという当初提示した比較について扱うことが可能になります。欺瞞的枠組みで救われる人々と排除される人々と、私達はどちらを優先するべきなのでしょうか。この点についてはいくつか検討しましたが、相当に議論の余地がある問題なのだろうと思います。

 

○おわりに

特にクリティークはどうこうとちやほやしたりけなしたりはしたくないと思っています。今回はクリティークの形として提出されていた議論について検討した結果、カウンタープランとして提示するのほうが綺麗に対立軸を出せるのではないかというところに至っているように、結局の所どういう材料をどういう形で遡上に上げるのかという違いでしかないと思うからです。それゆえ近頃の言説の躍動に関しては、あまり良くも悪くも思えないという感じです。

 

 


[1] 肯定側の「メリット」を判定から排除できるのか

 練習試合や本番の大会の中で「実際にはクオータは導入されないので政策的な効果は検討から排除すべき」という主張がなされました。メリットを判定から除外できるならば、クオータについて肯定するのは排除の思考を形成してしまうから論題の肯定は妨げられるべきでしょう。

 しかしながら、こうした主張に対しては私はあまり共感しません。仮想的な政策決定の検討をすることで、ディベーターが男女という代理変数に象徴される現実の社会的不正義へ関心や思想を形成する余地は十分にあるから、肯定側は政策・否定側は思想という二分法には違和感を拭いきれないと考えるからです。肯定側の主張も否定側の主張もディベーターの思想形成に一定の寄与を果たしうるのであれば、「男女という代理変数に象徴される現実の社会的不正義の解決を目指す意識をディベーターに与えること」は、「多様な性あり方を排除する意識をディベーターに与えないようにすること」によってどうして棄却できるのかという説明(すなわち、思想形成の効果としての比較)がなされるべきだろうと考えました。結局形を変えても欺瞞的な枠組みで誰かを救うことと欺瞞的枠組みで誰かを排除することの比較からは逃れられないと思います。

 

[2] 政策から背景にある思想を推論することについて

 私は私の行動から意図を推測されることを好みません。同様に、肯定側として提示した政策から思っても見なかった思想を読み解かれるとあまり心地よくはありません。政策がそうした思想の持ち主に悪用されるというならばわかりますが、肯定側が立論の中でどういう資料や言葉を使ったのかについて具体的に論じずに肯定側の意図を推論されるのは不快であるということです。(当然すべての思想に自覚的であることはないので他者からの指摘から内省することは重要だと考えます。)[Z]

 

[3] クオータの場合は思想が悪かったのか

 クオータをあらゆる格差への怒りからも正当化できる以上、クオータの誤謬はそこに悪しき思想が根ざしているというよりも、性別の書かれた戸籍制度に依拠している点にあると考えるべきなのではないでしょうか。肯定側は性別の書かれた戸籍制度について意見表明をしたわけではないですから、思想や目的が誤っていたと言われるよりその手段が誤っていたと言われる方がしっくりきます。

 

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[X] 思想と実践が相互排他的な二項対立の様相で語られることへは、私も強い違和感を覚えます。これはもう数年前に読んだ文献ですが、ウェイクフォレスト大学のDavidが1997年に述べた次の文章が、端的に正鵠を射ているように私には思われるのです。

もっとも一般的なパーミュテーションは、Kritikの提示する価値観について再考し、あるいは受容しながら、肯定側のPlanを実行することです。(中略)要は、概念について考え直すことはやるとしたうえで、取るに足らない立場を頑なに維持するより、Planも同時に実行することで得られる利益のほうが大きい。この点で、PlanとKritikの両方を受け入れ議論することで、得られる恩恵をどちらも享受することが、最適な選択肢なのであります。

「どっちも考えるのが重要だよね」という当然のことを言っているだけではあるのですが、自分にとっては説得的でした。もっとも、その場であることを論じることそれ自体が害悪であるという場合にはこの限りでないとは思いますが…。

ちなみにDavidの原典は http://groups.wfu.edu/debate/MiscSites/DRGArticles/GartensteinPrestes1997RenewableEnergy.htm だったのですが、ウェイクフォレスト大学のディベート部のHPはリニューアルしたのか何かで、Kritikの重要文献Shanahanの論文なども含めて元のURLを使えなくなってしまっています…。確認したい方は、上のURLとWebアーカイブサービスなどを併用くださいませ。

 

[Y] Kritikの構成要素の一つと言われることもあるAlternativeに該当する部分であるように思われます。「あなたたちの主張を批判して、言説を排除します、という立場」もAlt.と見做されうるみたいですが、今回のような場合はたしかにできるだけ明瞭な立場が用意された方がより建設的な議論が拓かれるように思え、まろさんに同意するところです。

 

[Z] とても難しいポイントですね。たしかにJDA2019秋の決勝戦で見られたような言説批判は、私は成功しているのか懐疑的です。肯定側も論題も「最低賃金を上げましょう」しか言っていないですからね(否定側はそれを織り込み済みで、「そこが今回のチャレンジの新しい部分だ」と言ってくださった記憶です)。ただ一方で、差別的な言葉とかは、その発言主に「そんなつもりはなかった」ことを理由に許されてよい類のものでもないと思います。では、両者――「そんなの言いがかりだよ」と「それはそんなつもりがなくてもだめだよ」――を隔てるラインはどこにあるのか、はたまたそんなものはなく主観性に依ってしまうのか、だとすればそれを議論という俎上でどう扱えばよいのか……というのは個人的には関心のあるところです。