2024年3月に公開された『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』の感想メモ。

 本作のテーマが音楽であること・音楽をテーマにこのような物語が描かれたことは、過去作品や実際の音楽の歴史に照らしてみたときに、こんなふうに見えてくるんじゃないかな~ 見ると面白いんじゃないかな~ という まとまらない思考の跡です。

 

  テーマについて

 

 音楽

ドラえもん映画において、「恐竜」や「宇宙」が複数回テーマになっているのに対して、「音楽」主題は初である。それどころか、大長編に限らず『ドラえもん』原作や藤子・F・不二雄のその他の作品を見渡しても、音楽を中心に置いたものは管見の限り ほとんどない。たとえば「ジャイアン殺人事件」のように、音楽が話題や手段になることはあるが、主題にはなってこなかったということである[1]

 正直、『SF短編集』などの形で発刊されることによって近年でも入手可能な作品以外にはほとんど触れられていないので、確かなことは書けないのであるが、それでも一つ思い出される作品があった。『UTOPIA 最後の世界大戦』である。どこかの図書館で手に取った記憶がある(たしか京都のマンガミュージアム)。第三次世界大戦で使用された兵器によって、世界は氷づけになってしまった。それでも長い年月をかけて「復興」し、科学によって大きく発展した都市「ユートピア」が築かれた。ところが、この「ユートピア」の実態は独裁であり、出来損いや反逆者がいると、そいつがロボットに置き換えられたり、その街が先述の兵器で氷づけにされたりしてしまう世界であった。第三次大戦の生き残りである主人公は、この支配からの解放のために、「最後の世界大戦」に臨むのである。……ざっくり こんなあらすじだ。

 ネタバレにはなってしまうが、最後にこの戦いに終止符を打つ鍵となったのが「音楽」だった。オルゴールか何かが流れて(なんでオルゴールがあったのかとか、どうして流れ始めたのかとかは、覚えてない。申し訳ない)、なんかわからんけどロボットたちが自滅して、戦いは終わりを迎える。そして、真の「復興」に向けて、人は改めて歩み始めるのである。なぜ音楽がその手段になり得るのかについてはほとんど説明がないものの、音楽が暴力への抵抗の鍵となっている点で、この作品と『地球交響楽』はパラレルである。

 ところで、昨年の映画は何だったか。『のび太と空の理想郷(ユートピア)』である。ユートピアとされていた場所は実際にはどのようであったか。権力による完全管理社会であり、出来損ないは洗脳や改造によって「置き換え」られそうになったり、これを抜け出そうとすると「氷づけ」になったりするのである。昨年の題材がこのような性質の「ユートピア」であることを踏まえたうえで、その次年の作品に この形で「音楽」を持ってきたのだとしたら、これは大変な構成力として讃えざるを得ない。


[1] ある意味で音楽を中心に置いた作品としては、『ザ☆ドラえもんズ ゴール! ゴール! ゴール!!』も思い出される。この作品では、セリフがなく、音楽と効果音のみで物語が描かれる。敵役が「運命」のメロディーを流しながらロボットを動かして攻撃してきた場面が脳裏をよぎって、思い出した。しかし、本稿で言う「音楽を主題とする」とはまた別の置き方をしているので、ここでは触れない。

 

 バロック〜ロマン

本作には実在の音楽家を模したロボットたちが登場する。バッチ(バッハ)、モーツェル(モーツァルト)、ヴェントー(ベートーヴェン)、ワークナー(ワーグナー)、タキレン(瀧廉太郎)といった面々だ。物語の内容に照らして、なぜこのような人選だったのだろうか。

 このなかで最も昔の時期に生きたのはバッハであり、彼はバロック終期に位置づけられる音楽家である。バロックより前〜黎明期には、神の音楽が措定されていた。神という唯一で絶対の存在が頂点にあり、音楽もそれに適うものとして存在するので、聖歌のようなものが主流だった(と理解している)。それまでの声楽中心だった音楽に対して、器楽が発展してこれに重なることで、歌劇などが興隆。歌劇では喜怒哀楽を表現する必要があるので、この時代で音楽に感情が込められるようになったとする評を見かけたこともある。しかし、このバロックの時代はまだ王族や貴族といった金持ちが音楽家を抱え込んでいる形態が多く、ゆえに作られる音楽もまた王族や貴族のためのものであった。

(A.メンツェル(1850-52)『フリードリヒ大王のフルートコンサート』 )

 モーツァルトやベートーヴェンが活躍したのは古典主義と呼ばれる時代だ。絶対王政から民主主義へと移行する時期であり、これほどの社会変動は政治の枠におさまらず音楽にも多分に影響を与える。市民階級の台頭にともなって、市民向けの音楽も増えていった。王族や貴族のお抱えという形態に限らず、いわゆるフリーの音楽家も増えていった。

 音楽がずいぶん市民に開かれたものになってきたが、古典主義の時代にあっては、まだ啓蒙主義の影響が強いのか、形式・型の確立に重きが置かれていたように思われる。それに対して、続くロマン派と呼ばれる時代にあっては、そうした形式・型だけでは必ずしも十分ではないと捉えるようになる。感情や直観といった、それまで不規則で不合理と見なされがちだったものにも、より価値を置くようになった。和音を重視し研究したワーグナーが選抜されているのは興味深いことであるし、不協和音の再評価が進んだのもこの頃とされる。すこし時間を置いて登場するのが瀧廉太郎であるが、彼もまたドイツロマン派に強く影響を受けた音楽家であるから、やはりこの文脈に位置づけて問題ないだろう。

 ということで、本作に登場する音楽家は、バロック〜ロマン派を代表する者たちである。そして、上で確認したこの時代の流れは、本作の物語の流れとも非常によく噛み合っているように思われる[2]

 本作における音楽は、こうしたバロックとロマンの双方の性質を併せ持つ、両義的な描かれ方がされているように思われ興味深い。「ファーレの殿堂」の真価を引き出すために求められるのは、ムシーカ族の正統な血族と、そこに代々受け継がれている由緒ある縦笛の音である。これはまさに神の音楽と呼べる。しかしながら、最後の鍵を開ける一音となったのは、「のほほんメガネ」こと のび太の「の」の音であり、それを放つ器はリコーダーなのである。他のみんながヴァイオリンなどの典型的な高級楽器なのに対して、のび太が手にすることになったのリコーダーであった。物語の最初と最後にて学校の音楽の授業・発表会でリコーダーを合奏する描写があることで、この楽器が日常の延長線上に位置づけられていることがわかる。このように両義的な描かれ方をされているが、時系列などに即して言えば「唯一無二の神による正統性ある音」から「庶民の権化みたいな音」へとシフトしているという点で、大まかにはバロック〜ロマンの時期に起きた流れを踏襲しているように思われる。

 最後にメタ的な視点から。先ほど触れた『UTOPIA 最後の世界大戦』をググってみていただくと、その画風に驚かれる方が多いのではなかろうか。馴染みある藤子作品のタッチではないことに気づくとともに、察しの良い方はこれが手塚治虫にあまりにも大きな影響を受けていることを見抜くだろう。藤子両氏は、初めはこのような模倣から学び、徐々に自分たちのスタイルを確立して、本稿で扱っている『ドラえもん』をはじめとしたヒット作を連発することになる。これまた、手塚という漫画の「神」の模倣ミメーシスから離れてゆく過程を観取することができ、構造のパラレル性を感じられる。

 また、本稿の冒頭では、本映画の主題である「音楽」が藤子・F・不二雄の原作ではあまり触れられることのなかったものであることを確認した。本映画の脚本は、アニメ『ドラえもん』の脚本を長く務めてきた内海照子である。原作を「神」としながら30分のアニメ脚本を書き続けてきた氏が、はじめて原作のない映画の脚本を書くにあたり、このような「バロック〜ロマン派」の流れを扱う物語をしたためたことを、「神」を離れ自立する覚悟と解釈することは果たして勝手が過ぎるだろうか。


[2] わかってる素振りで書いてはみたが、私は音楽のことは詳しくないので、個人的には 同じような歴史を辿った絵画を想起した方が流れをつかみやすい。かつては絵画といえば宗教画であり、聖書の場面を描くのが原則で、風景を描く場合であっても、神話の登場人物をねじ込んだり、植物や人物の衣服が古代を思わせるものになっていたり、といったものだった。それが、金持ちが画家を雇って自分や家族の肖像画を描かせるようになり、これが金持ちによって誇示されたり アカデミーでも認められたりすることで、人物画も絵画としての地位を獲得する。さらに工業化が進むと、都市の発展とさらなる富の蓄積が生まれる一方で、都市の貴族にはノスタルジーにともなう田園への回帰の機運が生じた。そこで、当初は異端としてボコボコに叩かれていた写実的な風景画も、ノスタルジーを癒す需要に呼応する形で、ようやく表舞台に上がるようになっていった。遠方にまで出向いて風景を描くことを可能にしたのもまた、チューブ絵具やカメラもどきの発明といった科学技術の発展であったことは、少し皮肉的にも映るが面白い。こうして絵画は、神のための神の絵から、人間のための人間の絵へと、その定義を拡張させることになった。

 

 ノイズ

「ノイズとは結局なんなのか?」という問いは、物語の根幹に関わるものでありながら、明かされることなく終演する。少なくとも、十分に語られ説明が尽くされているわけではない。この問いへの回答は、映画内においては「なぜ のび太たちはノイズに抗う必要があるのか」という問いに、メタ的には「なぜ 本映画は作られる必要があったのか」という問いにも直に接続するものであり、重要なポイントである。

 正直、この説明がなく物語が終盤まで進んでいくために、中盤は話に乗り切れない気持ちでいた。しかしながら一方でまた、「ノイズとは〇〇のことやで」と明示または示唆してしまうと、陳腐さが世界観をオーバーラップしてしまいうるという懸念もわからなくはなかった。

 言葉を尽くしすぎても全く触れなくても物語を損ねうるこのアンビバレントな難問に、終盤で挟まれた無音のシーンは唯一無二の解をもって回答していたと思われる。すなわち、ここに言葉は要らない。理屈や背景の説明など不要なのだ。「音がないというのは、こんなにも恐ろしいものなのだ」ということを、視聴者はのび太への仮託をもって文字どおり体験する。それだけわかれば、ノイズを畏れ これに抗う理由として十分だ。このことを明瞭に描き出すために、本映画では開幕からずっと日常の生活音などが強調して描写されていた。普段以上にうるさく鳴らされていたからこそ、無音が際立つ。素晴らしい機構による描写だったと感じる。

 個人的には、このコンセプトを仄めかすための一つのセリフとして、「どくさいスイッチ」回の「まわりがうるさいってことは楽しいね」をサンプリングするのもオシャレな選択肢だったのではないかと思うが、狙いすぎだろうか。

 

  描き方について

 

 セリフ

セリフの話に触れてしまったので、これに関して言えば、一つで良いので強いパンチラインを一発かまして欲しかった。

 近年の作品でいえば、『月面探査記』の「想像力は未来だ。人への思いやりだ。それを諦めたとき、破壊が生まれるんだ。」や「のび太のおやつと一緒だね。」、『空の理想郷』の「これがぼくだからだ。」あたりは、まさにその作品の代名詞とも呼びうるキーフレーズとなっている。

 今作に関しては、、、個人的にはそこまでのものがあったようには思えず。。。チャペックの「……地球交響楽!」は確かにブチ上がるポイントではあるのだが、上述のような「そのパンチライン一発だけで当該作品が何を大事にしているのかがわかるフレーズ」には至っておらず、別箇所でそうした材料も欲しかったなという印象が残ってしまった。

 

 身近さ

普段のアニメ脚本のときから意識していらっしゃることなのかもしれないが、「子どもたちにとっての身近に感じられること」を作品全体で重視されていたように感じた。宇宙船で飛ぶのではなく、普段の学校の深夜の音楽室から異世界に入り込む。タイムマシンでスリップするのではなく、おもいでコロンで今現在の上野に足をつけたまま過去に思いをはせる。SFを完全に非日常として分断して描くのではなく、日常のなかの非日常という形で描くことに工夫が凝らされている印象。

 

 ドラえもん

今作でのドラえもんの位置づけって、すごく難しいように思う。一言でいえば「ワークしてないんだけど、その割にはなんか首突っ込んでくるなぁ」という印象。

 そもそもドラえもんは楽器を弾かない。ひみつ道具効果のない、ただのカツラと棒で指揮(っぽいこと)をする。中盤からは機能不全になり、終盤では指揮者の座をチャペックに譲る。

 「今作はドラえもんはベンチ。のび太たちががんばる」というのであれば、後述するとおり ハッスルねじまきとかもカットして、そのコンセプトを貫くことを期待してしまった。ノイズに喉からやられた場面も「なんでここでドラえもんがやられる描写が必要だったのか?」と考えるが、これは私の理解力がないのか、なかなか答えが見つからない。「ノイズの恐ろしさを子どもにもわかりやすく描く」というのも一つあり得るが、だったらノイズの正体とセットで描いてほしかった気もする。難しい。

 

 オープニング

出来のよい映像だった。物語本編にもかかわりつつ、綺麗にまとまっていまして。

 懐古厨としては、やっぱり映画は「のび太の『ドラえもぉ~~ん!』の泣き叫びからの引きからOPが流れ始めてタイトルロゴ」という伝統の流れが恋しくなってしまいがちだが、本作において「ドラえもぉ~~ん!」は物語終盤の重要な場面で、しかも無音という斬新な形で挿入されており、「それならOPの『ドラえもぉ~~ん!』は無しでも仕方ないか」と思った。

 

 「地球交響楽」

とてもよかった。何かしらドラえもんの曲が差し挟まれるだろうなと確信はあったが、こんな堂々と歌い上げられるとは思ってなかった。90周年記念だから、パーマンとかの旋律も紛れ込んでいないかと耳をすましていたが、聞いている限りではなかった気がする。

 とてもよかったが、「もう『ドラえもんの曲』は『あんなこといいな』でも『あたまてかてか』でもないんだなぁ」と懐古厨。

 

 

  ひみつ道具について

 

 あらかじめ日記と時空間チェンジャー

うまい使い方だと思った。伏線のはりかたも自然なうえに納得できる。『月面探査記』の異説クラブメンバーズバッジが典型的かつ頂点とも呼べる仕上がりだが、私は「原作に出てきた道具が原作にはなかった巧い使われ方をする」という脚本に最高級の美しさを感じるので、この2つの道具の使い方については両手をあげて拍手したい。

 ただ、そのような嗜好を持っているために、本映画オリジナル道具の音楽家ライセンスがあまりにもチート級の無双っぷりを発揮していたのが、

 

 ハッスルねじまき、要ったか?

ここで一時帰宅する場面は「のび太が1人で地道に頑張る」というプロセスに焦点を当てる機能を持っていたと思われる。夜中に抜け出して ひとり風呂場でリコーダーの練習をする描写はその最重要なものであろう。「だったら別に遅くてもいいから宿題ひとりでやれよ」ってのが正直な感想。。。不要どころか ない方が良い。ミッカたちに「はやく! はやく!」コールをさせる以外の目的が見当たらない(あれはかわいかった)のだが、私が何か見落としているだけかもしれないので、何か気づいている方は教えてください。

 

 客寄せチャルメラ、要ったか?

音楽関係の道具を色々出したいというのはわかるが、結構クライマックスでシリアスな展開であれ挟まれたのは「うーん」って思っちゃった。

 

 

  その他

来年は何なんでしょうね。中世ヨーロッパぽい城を見せられて真っ先に思い浮かぶ原作といえば『ゆうれい城へおひっこし』なのだが、コウモリが出てきたってことはドラキュラが絡むのかもしれないし、ドラえもんが「絵」を描いていたこともポイントなのかもしれない。いずれにしても、来年も楽しみにしています。