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日本シーレーン問題研究会

近い将来「日本の生命線(含むシーレーン)」となる南太平洋、特にパプアニューギニア(PNG:Papua New Guinea)周辺の情報を先取りして分析し公開しています。

丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より

遅れてやってきた飛行機に乗り込み、急上昇した期待の窓から外を眺めると、かつて我々の祖父達が、病魔と敵が襲い来る飢餓地獄の中で、ある者は母を思い、あるいは愛する妻子の面影を目に浮かべながら死んでいったに違いない海岸線が見えた。

日本兵は、あの湾曲する海岸線に沿って日本の方向に向けて脱出していったが、ほとんどがその途中で人知れず消えてしまったのだった。

あの密林の土の下に、そしてあの海の水底に、今でもまだ何千ものご遺骨が眠っていると思った時、涙がボロボロ流れた。

そして、「自分は必ずまた帰ってきます」と心の中で誓った。

帰国後、内定していた商社に電話をし、入社を辞退する旨を伝えた。

身勝手きわまりないこの心境の「変化」によって、大変な迷惑をかけてしまうことに対し、本当に申し訳ないという気持ちもあったが、しかし日本には私の代わり以上に、もっと優秀な人間はいっぱいいる。

一方で、パプアニューギニアでのこんな現実を知ってしまった人間は、そんなにはいないはずだ。

だったら、祖父の世代が何十万と命を落とし、また何百何千もの現地人が、日本人を助けようとして死んだこの国と日本を再び繋ぐため、何かをしようと思った。

その孫の世代として、一人くらい自分のような「大馬鹿者」がいても良かろう。

「賢い」者は他にもたくさんいる。だったら自分はあえて「大馬鹿者」になろうと思った。

そしてそのためには、日本での地位や安定を自らの安心のために求めることは、いっさいやめようと心に誓ったのであった。

以来10年、パプアニューギニアでいろいろなことをやろうとし、多くの人々に会った。

失敗も多く、立ち直れないかと思ったこともあったが、しかし根本的な部分は全く変わらずにいられたことは幸いであった。

それは全て、日本の兵隊さんが向こうの人達と築いてくれた「信頼」のおかげであった。それで何度救われたか判らない。

その間、パプアニューギニアが、実は知られざる「巨大な資源埋蔵国」であり、地政学的にも日本の「生命線」であるということに気付くと共に、当の日本では官民ともにそのことに全く気付かずにいて、しかも近年の急激な進出によって、日本の安全が南太平洋から静かに、しかし大きく損なわれつつある現状を知るにつれ、大きな危機感を覚えもした。

今から書くことは、過去10年間パプアニューギニアに関わった30代の若者が、上は首相や大臣クラスの閣僚から、下は奥地の村に住む老若男女に至るまで、様々な階層の人々と出会って寝食を共にし、またいくつかの「周辺国」の軍幹部や情報関係者らとも接触し、自身も危ない目に遭い、また何度も苦しい風土病に冒されながら得たわずかな経験と、そこから導くに至ったいくつかの確信についてである。

この本を読んでくださる皆さんが、少しでもパプアニューギニアを含む南太平洋のことを知り、私達戦後日本人が無意識のうちにどれだけの「忘恩」を重ねてきたか、そして現地の人々が、今日でもなお、どれだけ私達日本の「力」に期待してくれているかを知ると同時に、この地域が我が国の「生命線」であり、その安全保障環境の維持が、私達一人ひとりにとってどれだけ重要な意味を持つのかを理解していただけるのであれば、これに勝る喜びはない。



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丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より

豪州の大学の研究者たちは「日本の戦争」の歴史的意味合いについて、私のような一劣等生に対してでさえ、得意の「アカデミック」な土俵で対抗できなかったが、まさにこの部分に、あの戦争を語る上でいつも出現する根源的な「問題」が隠されている。

つまり戦後の国際的枠組みの中では、「日本=悪」が絶対的に正しく、有色人種たちはほとんど日本人を憎んでいる(憎まなければならない)という図式が、今日でも旧連合軍の基本的な了解事項であり、「常識」であるということである。

だから私がパプアニューギニア人ガイドと話していた時に抱いた「恐れ」なるものも、結局のところ、「どうせ最後は『お前達日本人は残虐だったし、悪かったのだから、謝罪すべきだ』と言われるに違いない」という「いつもの『お約束』的な結末」を意識したものだったのだ。

しかし、私が抱いていたのは全くの杞憂であった。彼らはむしろ、かつての日本人を賞賛し、今でもその帰りを待っている、と言うのだ。

「なぜ、負けると判っていた日本兵を助けたのですか?」不思議に思ってそう問うと、ガイドの男は、
「祖父達は、目の前で苦しんでいるあなた方の国の人達をとても放っておけなかったのだ」と答えた。

しかし、いくら哀れでも、命を賭けてまで見知らぬ外国人を救うものだろうか。我々へのリップサービスではないか。そう思ったので、
「でも、もし日本を助けたら、必ず後で連合軍にやられるのは判っていたでしょう?」と畳みかけると、相手はこう言った。

戦争が始まるまで、我々はずっと白人のマスター達に奴隷のように扱われていた。しかし、日本の兵隊は、白人とは違った。

日本軍は、同じ有色人種として一緒に白人を追い出そう、そして独立しよう、そのために我々はここまで来たのだ、と言ってくれた。

彼らは我々と同じものを食べ、同じ小屋に寝泊まりしてくれて、大変に子供達をかわいがってくれた。

真に人間扱いをしてくれたのは、ジャパンが初めてだったのだ。

私達はそのことが嬉しかった。だから、そんなジャパンの兵隊が死にかけているのを、我々は放っておくことはできなかった」

その話を聞いて、私は胸が締め付けられるような感覚に陥った。

瀕死の日本兵を助けたというような類似の話は、他の地域でその後何度も聞くこととなったし、凄惨な事実ではあるが、そんな人間としての情を我々の祖父達にかけてくれたせいで、何百人もの心優しき現地人が、
戦後、ほとんど裁判もなしに連合軍に処刑されたという話を各地で聞いた。

欧米人は、「未開の原住民」によるそのような行為を、許しがたい「裏切り」として捉えたのだ。

それなのに、パプアニューギニアの古戦場を歩いていて、明白な「敵愾心」や「反日」の感情には全く遭遇しなかったばかりか、
彼らは、日本人だというだけで我々の周りに集まり、時には踊り狂わんばかりに喜んでくれたのである。

東部ニューギニア戦線に投入された16万とも言われる日本兵のうち、最終的に8千人ほどが祖国日本に帰ったとされるが、
その中には、そんな現地民に命を救われたおかげで帰還できた人も多い。

今、日本の各地で普通に暮らし、町の中をスマートフォン片手に歩いている一般人の中にも、パプアニューギニア人によって命を救われた結果、生きながらえた人達の子や孫は何千人、何万人といるはずなのである。

しかし、我々はそのことを完全に忘れてしまっている。

我々日本人は、この国の人々に大変な「御恩」がある。

返しきれないくらいの御恩がある。

しかし、そのことをほとんど誰も知らないのだ。


<続く>


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丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より

私はもう一つの衝撃的な事実を知らされた。
それは、多くのパプアニューギニア人が、日本軍を助けたという理由だけで、戦後、連合軍に処刑されてしまったことである。

この話は、日本軍が徹底抗戦した地域に住むガイドから聞いたのだが、日本軍が優勢な的にめちゃくちゃにやられ、三々五々退却していった時、村人たちはボロボロの日本兵の後る姿を泣きながら見送った、というのである。

それだけではない。

傷つき動けなくなった一人の日本の将校を、見るに見かねた酋長が奥にかくまったのである。

ジャングルという無慈悲な自然と敵の猛攻の前で、無力に倒れるしかない「文明国」から来た日本人将校を、教育する受けたこともなく、目の前で行われている戦争の意味すら理解していなかった未開の地の一老人が、
ただひたすら「人間として」、心底哀れに思って助けることにしたのだ。

しかし、それはやがて連合軍にバレてしまい、日本人将校と共に酋長も捕まってしまった。

そして二人は同時に処刑されてしまったという。

この話を聞いて再び頭を殴られるような感覚に陥った私は、しかしその次に、ある種の「恐れ」をも感じた。

もしかしたらこの国の人々は、そんな目に遭う原因を作った日本人を恨んでいるのではないか、と。

確かにこの地域に物理的な戦争を「持ち込んだ」のは日本であった。

私の世代が受けてきた教育によれば、アジア諸国は全て日本の「侵略」や「残虐行為」を忘れていないし、日本は未来永劫、そのことをアジア諸国に対して、そして世界に対して謝り続けねばならない、ということであった。

実は、私がこの時に抱いた「恐れ」には、それなりの根拠があった。

パプアニューギニアは、戦後もずっと豪州の植民地であり、教育もまた、全てが豪州主導であった。

私は豪州に留学していたことがあったが、そこでも「戦前の日本=悪」という歴史観が一般的で、それに疑義を呈することは、アカデミズムの世界でもほとんど許されなかった。

私はその状況に何度も立ち向かった。

大学院時代、『大東亜共栄圏は正しかったか否か』という題で論文を書かされた時には、他の学生たちが「あんなものは嘘だ、欺瞞だ、残虐な日本の行為を正当化する政治トリックだ」等と書いている間、私は多くの一次資料を使用して、
「もちろん、政治的には約束が果たされなかったことも多いし、その概念すら日本の国益を最優先するためのものであったが、しかしそれは、どの国家においても同じことである。

一方で、当時の指導層から末端の将兵に至るまでの多くの日本人が、本気で『欧米植民地主義からの有色人種の解放』を信じ、そのために戦い、命を落としたのは事実であるし、あの戦争があったからこそ、アジア・アフリカ諸国が、戦後、独立したことは歴史が証明している。

つまり、日本は戦争には負けたが、その理想においては勝利したとも言えるのではないか」というようなことを書いたのであった。

しかし採点をした講師は、「確かに論点は非常に明快でよく整理できている。ただ、あの戦争を単純化し、正当化しているのではないか?」というようなコメントをし、その成績も79点に留まったのであった。

別の教官は、朝鮮研究では世界的なニュージーランド人研究者で、「朝鮮半島の女性史」が専門であったが、彼はある日、私を部屋に呼び、「いくらいろいろな資料を集めても、君は日本人だ。つまり被害者ではなく、加害者の側にいるのだから、そんな主張をするべきではない」などと言い、最後には、「つまり君は、狂信的な超国家主義者なんだ」と言い放ったのであった。

この瞬間、私は「アカデミズム」なる名前に隠された悪質な欺瞞とその限界を感じ、大学院でそれ以上勉強を続けようとする熱意を一気に失った。

私が信じていた「アカデミズム」とは、うさん臭い政治とは違い、一切の妄信的なタブーを疑い、むしろ信頼できるデータや一次資料を小脇に携え、そんなタブーにこそ斬り込んでいくべき手段であるはずだった。

そして私はその論文で、あの戦争そのものが、正しいとか間違っているという「評価」をしたつもりはなく、
ただ、皆があえて見ようとしないあの戦争の重要な側面を事実に基づいて「指摘」しただけであった。

しかし、一流とされる彼ら学者がやったのは、そんな指摘をしただけの一学生を「狂信的」とした、「レッテル貼り」だけであったのだ。

<続く>




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丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より

2003
7月、私はパプアニューギニア国オロ州ポポンデッタの空港にポツンと立っていた。

私は防衛大学の田中宏己教授
(当時)が計画したニューギニア戦の戦跡調査の通訳として、初めてパプアニューギニアを訪問していたが、この日、帰国予定であった。

私がパプアニューギニアで遭遇したのは、誰にも知られることなく戦場の露と消えた若き日本人が現地人の心に残した数多くの「良き思い出」であり、
彼らが今でも持っている、信じられないくらいに深い「親日の情」と「日本への期待」であった。

そこで私は、「人生を全て変えてしまうほどの感動」を何度も味わうことになる。

私は田中教授と共に、「世界最強」と謳われた日本海軍戦闘機隊が駐留していたラバウルやラエ、マダン、ココダなどを巡ったのだが、最初に心を打たれたのは、モロベ州ラエ郊外の密林の中を歩いていた時のことである。

錆びついたまま残された高射砲を視察し終わった時、案内してくれていた地元民らがボソリと、「日本の兵隊さんのお墓がある。見てみますか?」と尋ねてきた。

大雨が降りしきる中、筋骨たくましい現地案内人の背中を追って深い茂みをしばらく掻き分けると、暗い密林の中に突き刺された二つの古び鉄製の十字架と、それに添えられた美しい花が目に飛び込んできた。

「傷ついた二人の日本兵が、進撃してきたオーストラリア兵から逃れようとして撃たれました。
遺体はしばらく放置されていたのですが、オーストラリア軍が去った後、日本の兵隊を憐れんだ祖父達がここに埋葬したのです。以後、ずっとここにあります。時おり、村の女達が花をあげていますよ。」

 
案内者は、哀れむような眼差しを十字架に注ぎながらそう言った。

地元の人々が添えてくれていた美しいピンク色の花が、雨に当たって小さく揺れている。
それが痛いくらいに我が目を射るので、思わずその墓の前に立ち尽くして瞑目した。

隣では田中教授が「こんな淋しいところで・・・。本当に哀れだねえ」と漏らし、沈痛な表情を浮かべておられたが、全く同感であった。

戦争が終わってすでに60年近くが経っていたが、この間、地元の人々はこの二人の兵士のことをずっと忘れていなかった。

忘れていたのは、私達戦後の日本人であり、私もまたその一人だった。

それに気付いた時、私は無知だった自分をぶん殴りたいような気持に駆られた。

ここで死んだ名もなき二人の日本人兵士は、ただ静かにこの土の下に眠っていたのか。

それとも、鬼哭啾啾、日本からの遺骨収容班が来るのをこの暗闇の中で待ち続けていたのだろうか。

愛する人や妻子はいたのだろうか。

この南海の果てで傷つき、迫り来る敵兵から必死に逃れようとしながら、その人生の最期にいったい何を思ったのか。

その時の彼らの心には、「絶望」以外に何があったのだろうか。

母の面影を思う暇くらい与えられたのだろうか。

なぜ、今まで誰も来なかったのだ!

なぜ、こんな不条理が許されているのだ!

そんな思いが、強烈な怒りとか悲しみのような感情として湧き上がってきた。

そうして見上げた空は、密林の濃い木々に覆われ、その間から差し込むわずかな白い光が、熱帯の冷たい雨と共にこの暗い密林の土の上にこぼれ落ちてくるだけだった。
その雨が、私の心にも鋭く突き刺さるようであった。


ここに眠る戦没者達のおかげで、今の日本がある。

それなのに、我々戦後の日本人は、バブルだ、高級車だ、住宅だ、キャリアだ、収入だ、海外旅行だと騒いでいただけだった。

そしてその間、これらの戦没将兵達は、異国の冷たく暗い土の下でずっと我々を待っていたのだ。

それだけではない。パプアニューギニアの人々が、今でも彼らの墓を守ってくれているのは、それだけの「尊敬」「信頼」「親近感」を日本の兵隊さん達に感じていたからである。

そんなことを考えていた私は、しばらく墓の前から動くことすらできなかった。

これが、私がパプアニューギニアで得た最初の衝撃であった。

<続く>





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丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より

あの美しい南太平洋が、これから資源戦争、そして米中覇権争いの「主戦場」となる。そしてその戦いの結果は、日本にとっては厳しいものになる・・・・。これは、この10年間、南太平洋情勢を見つめてきた者としての、確信に近い感想である。

このことを政治家や経営者達に言い続けてきたが、関心を持つ人はわずかだった。なぜなら、ほとんどの日本人にとって、南太平洋と言えば茫洋とした美しい海が広がり、ヤシの木々が茂る白い砂浜が続いているだけで、新婚旅行やスキューバダイビングにはいいかもしれないが、それ以外にめぼしいものは何もない、という程度の場所だからである。

しかし、この認識は間違っているし、日本の将来を考える上では「危険」ですらある。

なぜなら、地政学的に日本の「裏庭」に位置している南太平洋地域は、日本に大量の食糧や資源を供給している豪州との海上交通の要所であると同時に、日本が必要とする資源の多くが手つかずのまま眠る「未開発地域」でもあるからだ。

事実、この地域は現在、「巨大資源地帯」として注目され、各国政府や資源メジャーが熱い視線を注いでいる。

そしてそんな南太平洋の安定を脅かしつつあるのが、急激な海洋進出政策を推進する中国である。

南太平洋島嶼国といえば「親日国家」の集まりである。

しかし、ここ数年、中国が「政・官・財・業・軍」の全ての資源を惜しみなくこの地域に投じ続けてきた結果、貧しかったそれらの島嶼国の多くが中国の進出を受け入れるようになり、資源争奪戦の最前線と化しつつある。

これにより、南太平洋地域は、かつては考えられなかった「米中覇権争い」の新たな「主戦場」となりつつあるが、当の日本は十分な対策を打ち出すことができていないのである。

一日も早くこの厳しい現実を直視し、ただちに具体的な対策を実行しなければ、日本はやがて取り返しのつかない過ちを犯すことになるだろう。

私は今、凄まじい勢いで変化する南太平洋の戦略環境やその重要性を何としても日本人に伝え、なにがしかの提言をせねばならないとの思いから、この文章を書いているが、本題に入る前に、なぜ私がここまで南太平洋の問題に関わるようになったのか、その「きっかけ」を説明させていただきたい。

キーワードは、「日本軍将兵とパプアニューギニア人が築いた絆」と、そこから生まれた「親日の情」であった。

<続く>


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