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日本シーレーン問題研究会

近い将来「日本の生命線(含むシーレーン)」となる南太平洋、特にパプアニューギニア(PNG:Papua New Guinea)周辺の情報を先取りして分析し公開しています。

先日、チャンネル桜に出演いたしました。今回は、先月に約一ヶ月間、中東とアフリカを訪問し、「テロの拡散」と「治安の悪化」を体感し、そして今後の日本が官民共同で採るべき道を考えながら歩いてきました。その感想を説明しています。

これまで数年間、「南太平洋島嶼研究会」の頃から小生のブログや書籍をお読みくださり、チャンネル桜をご覧になって下さっている皆さんにとっては、「おい、急にアフリカかよ!」と思われるかも知れません。しかし、南太平洋問題に絡めば絡むほど、それが実はその一地域に限った事ではなく、同じ海を通じて東南アジアや、はるか遠くの中東やアフリカまで連綿と続く大きな流れの一部に過ぎない事が判ります。

特に、超大国アメリカが深刻な財政難にあえぎ、相対的な国力をどんどんと低下させ、また、経済成長に限りが出たとはいえ、いまや強力な各種軍事兵器を備えつつある中国が、その巨大化した海軍力をもって太平洋や南シナ海、インド洋に進出せんとする中、今後我が国の資源確保戦略は、これまでと違って独立独歩による構築を徐々に迫られるようになるでしょう。このため、私たち日本人は、「最後の成長市場」「資源の宝庫」と呼ばれるアフリカ、そして日本の石油資源戦略の最上流である中東の動きをも大きな視点から見て行かねばなりません。

安倍政権になり、テロで治安が悪化するサヘル地域に対して、1000億円が投じられる事が決定しました。また、ジブチに展開する自衛隊の基地を強化し、アフリカにおける邦人救出任務に役立てようという動きもあります。一昨日には、船舶を護衛する民間警備員に銃による武装を認める新たな法案も参院で可決されました。アメリカ軍はアフリカ周辺にどんどんと無人偵察機の基地を作り、特殊部隊を投入し、最近暴れ始めたイスラム武装組織を新たな「テロ組織」に認定し、新たな攻撃を行う準備をしております。過去になかったようなこの素早い展開は、今後も「対テロ戦争」が舞台を中東からアフリカに変えて続く事を意味しています。

そんな中で、この資源の宝庫であるアフリカに、日本はどのようにして関わって行くべきでしょうか。まずはセキュリティをしっかりして、日本人駐在員や日本企業の安全をはかる事が先決です。そして、日本人には「国際レベルの優秀なセキュリティ要員」になれる潜在的な強みがあります。それが、日本軍将兵がニューギニアで行い、イラクに行った自衛隊が行った現地人との「心と心の交流」、つまり「現地化」です。相手の宗教文化を理解尊重し、相手と同じマナーで同じものを食べ、同じ目線で語らう事です。この姿勢こそが、セキュリティのもっとも重要な根幹であると思います。そんな「強み」を我々日本人はもっと認識すべきでしょう。

(続く)

丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より


昭和17年夏頃の段階では、開戦後の日本が破竹の勢いで攻略した地域のほとんどで、戦闘は一段落していた。

 

アッツ島の戦いなど一部を除けば、昭和19年6月のサイパンの戦いまでの約2年間、ほとんどの戦域は比較的平穏だった。

 

しかし、南太平洋(ソロモン・ニューギニア)に送られた部隊だけは違った。

 

ここだけは、ずっと戦い続けていたのだ。

 

南方での戦いなど想定外だった陸軍は、熱帯仕様の装備を欠いたまま、あのポートモレスビー作戦からガダルカナル作戦を戦うはめになっていた。

 

そんな陸軍は、この地域で「第18(安達二十三中将指揮)」を編成し、情勢に流されるまま、その後もニューギニア各地で死闘を演じることとなった。

 

一方、海軍では、航空隊がラバウル、ラエ、ブーゲンビルを基点とし、連日、優勢な連合軍航空隊に頑強に抵抗、この陸と空での抵抗は、連合軍をかなり苦しめ、その侵攻を一手に食い止め続けていた。

 

にもかかわらず、その間、海軍主力の「連合艦隊」が救援のためにこの戦場に現れることは、ついになかったのである。

 

その海軍司令部は、昭和19年2亜gつ、実に奇怪な決定を下す。

 

それまで米豪軍航空部隊と互角に戦っていたラバウルの航空隊を、突然トラックに移してしまったのだ。

 

おかげであれだけの「素晴らしい仕事」をしていたラバウルの航空隊は、突然に敵前から「消滅」し、直後にマッカーサー指揮の連合軍は一気にマヌス島まで抜けて行くことになる。

 

ここから、ニューギニア本島の陸軍は完全に「干上がって」いき、事実上、見捨てられてしまった。

 

田中宏己防大名誉教授によると、ニューギニア戦の転機となった昭和18年の「フィンシハーフェンの戦い」では、米軍はラバウル航空隊を恐れるあまり、上陸は絶対に夜間に実施するとして、豪州軍と深刻な対立さえ演じているのだ。

 

それほど敵に恐怖を与えていたラバウル航空隊の役割を、全く理解していなかった海軍司令部の思考経路は、いまだに「謎」であるが、マッカーサーの司令部も、本当にラバウル航空隊が目の前から消えてしまったので、何かの罠ではないかと疑い、ラバウル周辺の偵察飛行を何度も実施している。

 

海軍がマッカーサーにその背後を全て「無償で」明け渡した結果、ニューギニア本島の陸軍は敗戦まで、補給や救援をほとんど受けることなく、地獄のような環境で飢餓と病魔、そして敵の執拗な迫撃戦闘を受け続けることになったのだ。

 

しかし、ニューギニアの第18軍は決してあきらめなかった。

 

そしてニューギニアの原住民もまた、食料の生産と供給や、日本の傷病兵の介護、物資の輸送などで日本陸軍を支援し続け、多くの原住民が日本のために命を落とした。

 

もし、この第18軍の「死闘」と、現地人の「支援」がなければ、日本はもっと早く敗北していたに違いない。

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丸谷元人著「日本の南洋戦略」(ハート出版)より


パプアニューギニアは、極めて親日的な国である。

不幸なことに、その最初の関わりは「戦争」であった。

ここは、大東亜戦争で「最も過酷な戦域」と言われたニューギニア戦線の主戦場である。

東部ニューギニアだけでも16万の将兵が戦死しているが、その環境がどのくらい過酷であったかといえば、当時の日本兵が、「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と恐れたほどだったと言えば、だいたいお判りいただけるかと思う。

その「歴史」を知らない限り、日本人としてパプアニューギニアを本当に理解することにはならない。

このニューギニア戦線では、陸軍の損害が非常に大きかったが、実は陸軍は、南太平洋で戦争をする気は全くなかった。

この地域での作戦が必要だと考えたのは海軍であり、ニューギニア・ソロモン戦線の戦いは、海軍が最初に始めたものの、途中で気がつけば陸軍の戦場に「すり替わっていた」というのが実情である。

海軍の作戦と編成を担当するのは、「軍司部第一部第一課」であるが、戦前、そこの課長だったのは富岡定俊である。

富岡は海軍大学校を首席で卒業し、終戦直後、ミズーリ号での降伏調印式にも出席した人物だが、開戦前の段階で、「対米戦争を行えば、連合軍は必ず豪州本土から反抗してくる、だからグアム、ラバウルと進出し、そこからポートモレスビーを攻略して、豪本土に上陸したい」と考えていたのである。

一方、ソ連しか想定していなかった陸軍では、あの広大な太平洋の島嶼地域で戦うなど、まともに考えたことさえなかった。

しかし、一端開戦となった以上、陸軍は行けないとも言えないから、急遽、上陸専門の精鋭「南海支隊」を編成し、海軍に付いてグアム、ラバウルと進んで行くのだが、当の海軍は、昭和
178月にガダルカナルの戦いが始まって以降、ニューギニアとソロモンの二正面作戦ができなくなってしまった。

つまり、陸軍を南の戦場に引きずり込んだ海軍は、その後ニューギニアの陸軍部隊への支援をほとんど行わなくなってしまった。

そして気がつけば、ニューギニア本島は完全に陸軍の主戦場と化していたのである。

これが「死んでも帰れぬニューギニア」の原点である。

 

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