増水のたびに橋が流出する分校通学 | ら・鮮・快・談

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村地鮮(むらち・せん)による、自然観察・文学逍遙・野宿紀行・哲学考察などのカオスに満ちた未定型雑記。つまり、あちらからのもらい物に目を凝らし、耳をすませ、あれこれ考えてみた雑記です。

最上川舟歌・真室川音頭を歌う   〔旅・快・談〕


最上地方の巨樹探索旅の折は、学生時代の友人による計らいで農小屋に寝泊まりした。その友人と小屋の持ち主(友人の地元同級生)と3人で小川を堰き止め、魚つかみをして遊んだりした。3人共に同年輩であり、童心に還ってはしゃいだ。その後、芋煮鍋をして宴会をした。最上町産の瑞々しい野菜も、最上川の鮎も、いっぱいいただいて食べた。

宴会とあらば歌が出る。ふるさとの歌がいい。最上川舟歌、真室川音頭が手拍子と共に歌われ、青空に響き渡る。私は、木曽節などを、ちょいと。

農小屋のある場所は現在廃村になっている場所で、持ち主(友人の地元同級生)は自宅から農繁期に通いで来て小屋を使用している。廃村になる前は、開拓村があり、分校があり、友人と地元同級生はここで生まれ、育ち、共に学んだ。

開拓というのは戦後のことだ。満州開拓団として渡満し、敗戦を機に内地に引き揚げ、この最上町の一角に鍬を下ろしたのだ。天童市などの出自を持つ人々だった。

2人から分校生活の思い出話をいろいろ聞いた。分校で勉強が終わって外に出れば、もうこっちのものだ。そこには田、畑、空き地、小川、沢、河原、丘、林、森など遊び場エリアがいっぱいある。仲間、連れもいっぱいいる。小さい子の面倒を見ながら、放課後を過ごす。川には色んな魚がいっぱいいる。石も、枝も、竹も、木の実も、いくらでもある。ちょっとした遊び道具は、工夫次第でいくらでも作れる。

高学年になると本校へ通う。数キロある通学路は、まだ砂利道だった。冬になって雪が積もる頃には、スキー登校する。雪が吹雪いて登校列の先頭もしんがりも見えなくなることがある。電信柱を目印にしながら、声を掛け合って進む。

大変なことは冬場だけでなかった。大雨が降ると町とつながる道路を横切る小川が増水。その小川を渡るには、丸木橋を通るしかない。ワイヤーで固定してあったが、激流に抗しきれず流されてしまうことがあった。もう、アウト。減水してから大人が一から作り直す。本校で勉強していて、大雨が降り続くと、「分校の子は早く下校して下さい」と放送があったという。丸木橋が流されてしまったら、家に帰れなくなってしまうからだ。

……そんな時代は、ずっと彼方に消えて行った。思い出の中に残っているだけだ。田も畑も、山仕事も町からの「通い」で出来るようになった。分校があった村は「廃村」になり、住民はそっくり町に移住した。あの通学路も見違えるように整備され、農作業に行く軽トラや乗用車が軽快に走っている。もちろん、丸木橋は頑丈な永久橋に様変わりしている。

そんな時代の移り変わりの中から、私たちは未来に何を見つめていくか。最後に、この村に何百年とすっくと立っているアカマツを描いたので画像を掲げておきたい。高さ、40m。周りの木々から数段も突き抜けている。高すぎて画用紙に入りきらないから、ずっと見上げ続けて描いた。首が痛くなってしまった。「親倉見(しぐらみ)のアカマツ」という。この村がまだ原野だった頃から、開拓村、廃村、現在まで、ずうっと見渡している。