「あの、それ『老人と海』ですよね。わたしもその小説、好きなんです」
新大久保駅にほど近い小さいバー。カウンターの奥側に座る女が、本を読んでいる私に声をかけてきた。聞けば、小説好きなのだが周囲に同じ趣味の友人がおらず、思わず話しかけてしまった、とのこと。私も似たような境遇だ。すぐに意気投合し、私たちは『老人と海』のこと、アメリカ文学のこと、そして生と死のことなどを閉店まで語り合った。
店を出た時、まだ終電に間に合う時間だった。だが、彼女の潤んだ瞳と数杯のバーボンが、今夜の私を大胆にした。
「もう終電は行ってしまったみたいですね。どうです? 朝まで一緒に過ごしませんか?」
電車の到着を告げる駅員の声が聞こえた。でも彼女はふふっと笑い、私の腕を取った。
彼女とひとつになった後、私はベッドで天井を眺めながら、つい告白してしまった。
「実は私、余命があと一年ほどなんです。今日は病院を抜け出して、最後の一杯と思って、あのバーへ行ったんです」
彼女はなにも言わず、私の目をただじっと見ていた。病気のことを隠していた罪悪感から、私はあわてて言葉を継いだ。
「いえ、そんな感染するものじゃないんです。少しずつ脳が縮んでいく病気でして。すみません、黙ってて。気分悪いですよね」
ばつが悪くなった私はベッドを出て、洗面台で顔を洗った。なぜあんなことを言ってしまったのか。飲みすぎたせいか? いや、病気が進んでいるのかもしれないな。
部屋へ戻ると、彼女はベッドの縁に腰掛け、バーボンのグラスを両手で包んでいた。
「そうだね。飲み直そうか」
「ううん……ねぇ、死ぬのはこわい?」
突然の質問に面食らったが、病気のことを告げたのはこちらだ。正直に怖いと伝えた。
彼女は目を伏せた。また、余計なことを言ってしまったようだ。謝ろうと手を伸ばすと、彼女はふわりと顔を上げた。
「わたし、あなたに会いに来たの」
そう言うと彼女は、どこからか小さな袋を取り出し、中身をひとつまみ、グラスに入れた。茶葉のような灰緑色の欠片がはらりとバーボンに舞い降り、波紋が広がった。
「この葉は、あなたの記憶を染める。あなたはこれからどんどん霞んでいくけれど、これで記憶を淡色に染めて、怖れを和らげることができるの」
そう言うと彼女はグラスの中身を口に含み、顔を近づけてきた。不意のことで驚いたが、どうせ消えてしまう身だ。私は目を閉じ、口移しのバーボンを喉に流し込んだ。
「……ありがとう。これで穏やかに、最期の時を過ごせるよ」
彼女はそれ以上なにも言わず、私をそっと抱きしめた。グラスの縁からこぼれたバーボンの滴が、私の背中をひと筋伝っていった。
ある日の夕暮れ、男はベンチに座り川面を眺めていた。男の記憶のほとんどは、風に吹かれる綿毛のように飛んでいってしまったが、不思議と怖れはない。それどころか男はいつも幸せを感じ、淡い光に包まれていた。
誰かに呼ばれたような気がして、男は顔を向ける。夕暮れの日差しに赤く染まる人影がふたつ、こちらを見ている。ひとりは男の妻だ。もうひとりは……男は思い出せない。どこかで会ったような気もするが……。きっと妻の友人だろう。男は会釈をして、川面に視線を戻した。
川面はキラキラと輝いていた。
〈了〉