【記念日にショートショートを】夜山【山の日】 | そうでもなくない?

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 ふいに、夜景を撮影したくなった。調べると、都心から電車で一時間ほどにあるO山の山頂から、きれいな夜景が見られると言う。本格的な登山は未経験だが、初心者向きの山のようだ。試しに昼間登ってみると、急峻な場所があるものの、二時間足らずで登り終えた。なるほど、これなら行けそうだ。撮影場所の下見もできたので、一週間おいた今夜、夜登山に挑戦したというわけだ。
 写真仲間を誘ったが、断られた。彼は「夜の山に登るなんてどうかしてる」と言って電話を切った。仕方なくひとりでやって来た。
 登りは興奮状態だったのか、大した恐怖心もなく無事目的地にたどり着いた。撮影の時も集中していたので、周囲のことは気にならずにいた。ところが、そろそろ下山しようと帰り支度をしていると、急に温度が下がったように感じた。ぶるりと背中が震えた。彼の言葉が脳裏をよぎる。が、まさかこんな町に近い、半ば観光地化された低山で、何かあるとは思えない。己の肝の小ささに苦笑する。時計を見ると午前二時。汗が冷えたのかもしれない。もと来た道を引き返そうと、リュックを背負い直した。
 月明かりもない登山道は真の闇。懐中電灯を握りしめ、足を踏み外さないよう慎重に降りてゆく。夜の山は、不思議ととても静かだった。鳥の声も虫の音も殆ど聞こえない。風が梢を揺する音がざわりざわりと鳴るばかりである。普段もそうなのだろうか……。
 さくり。近くに何かの気配がした。
 そうっと灯りを向けると、闇の中に光る玉が四つ。二頭の子鹿がこちらをじっと見ていた。脅かすなよ、と胸を撫でおろすもなんだか急に周囲の闇が気になってきた。
 かさかさ。ざわざわ。こつこつん。
 幽かに聞こえる音すべてに、なにかの存在を感じる。鼓動が高まり、知らずしらずに足が速くなる。ぱきん。靴が小枝を踏む。慌てて飛び退くと、道端に積まれた石に触れてしまった。がらんごろからん……この闇では崩れてしまった石を積み直すことは困難だ。申し訳ないが、そこを後にした。
 さわっ……肩に何かが触れた。
「うわわわわーっ!」
 たぶん木の葉が落ちたか、気のせいだったのだろう。だが、驚いた私はぬかるみに足を取られ、ずるうっとバランスを崩すし、樹々の間をざざざぁっと滑り落ちていった。
 滑落が止まったあとも、しばらく動けなかった。心臓の音が、どくりどくりと耳裏を打つ。息を整え見上げると、落差は二mほど。大したことはない。恐怖心が、数十メートルも落ちたように感じさせたのだ。ふふふと笑い、泥をはたきながら立ち上がる。怪我のないことを確認し顔を上げると、目の前が駐車場だった。なんだ、あと数分も歩けば、下山していたのだ。
 車に戻りドアを開け、後部座席にリュックを放り込む。運転席に座ってふうと一息つくと、心臓の音も少し収まってきた。やれやれ。エンジンをかけ、私は帰路についた。狭い山道だが、深夜なので対向車もなくスムースだ。これなら、予定より早く家に着くだろう。
 ぐびりと一口、水を飲む。
 ただ、いくつか気がかりなことがあり、このまま帰宅して良いものか……と心がざわめく。ひとつは、フロントガラスについた季節外れの紅葉の跡。赤子の手のひらのような汚れは、ワイパーを動かしても、赤く塗り広がるばかりで消えてくれない。それにいつのまにか現れた助手席の男。こいつは誰だろう……。
〈了〉