両親は雨の日に死んだ。
だから私は、雨が好きだ。
私が十歳のとき、両親は車にはねられた。気象予報士が梅雨入り宣言をした日、土砂降りの午前二時のことだ。見通しの良い直線の道路だったが、雨は運転手の視界を塞ぎ、脳がふたりの姿を認識したのは激突する0.5秒前。ブレーキを踏んだのは、その0.5秒後のこと。たった一秒で、人間だったものがふたつ、ゴロリと道路に転がった。たった一秒のことで、この身をぎりぎりと縛っていた虐待の、荊棘の鎖が解き放たれた。私の中にちいさな炎が灯った。
事件を担当した弁護士からは、事故を起こした運転手は飲酒をしていたこともあり、前方不注意の過失致死で実刑になると聞いた。私は彼に感謝し刑を軽くできないかと弁護士に相談してみた。弁護士は眉をひそめると、そのままどこかへ行ってしまった。
とある、事故当時と同じ土砂降りの日、私は信号が変わるのを待っていた。横断歩道の反対側でも、誰かが同じように待っている。雨のカーテンが、それを影のようにぼんやりとさせている。不意に影がふらりと足を踏み出した。ふと見ると、左から車が走ってくる。影は気づいていないのか、かまわず歩を進める。車と影は激突し、影ははね飛ばされる。回転を諦めた竹蜻蛉のように、影はゆっくりと頭から落ちる。歩行者用信号が青に変わると、いま見たものはきれいさっぱり消えていた。はねられた影も、はねた車もなにもない。まるで、B級ホラー映画のワンシーンのようだった。
それから影は、雨の日になると現れた。窓から見える水銀灯の脇、鏡面のスクランブル交差点、水煙に揺れる川面。影は決まって、ゆらんゆらんとこちらに歩いてくる。そして、どこからともなく現れた車にはねられ、いつの間にか消えている。
私の炎は、少し大きくなる。
影は現れるたび、少しずつ近づいているような気がする。でも、歩きだすとすぐ車にはね飛ばされてしまう。影が宙を舞うたび、私は事故を起こした運転手のことを思い出し、少し嫌な気持ちになった。
そしてまた梅雨の季節になった。毎日雨が降り、私は引き取られた叔父の家で息を潜めていた。今夜も叔父は部屋にやってきて私の魂を汚した。他に行く当てのない私は、ふたたび茨の鎖に囚われていた。
このところ、影はすぐそばに現れるようになった。昨夜は窓のすぐ外にいた。窓は影で埋め尽くされ真っ黒だった。地獄の入口とはこんなものかと、ぼんやり思った。乱れた布団の上で天井を見つめていると、部屋の隅で気配がした。目をやると、影が佇んでいる。ゆらんと揺れると、すうと増える。ゆらんすう、ゆらんすう。どれくらい増えたのか、私は黒い影に飲み込まれていた。いつものように、現れた車が影に突っ込む。影はちぎれて、部屋中に撒き散らされる。壁や窓、天井に染みを作ったあと、影も車も跡形もなく消える。深と静まり返った部屋は牢獄のようで、逃げ出せない私に罪があると言わんばかりだ。
体の芯から、雨粒の雫が一筋、流れ落ちた。私の心に降る雨が、にわかにざあっと激しくなる。私はかばんを引き寄せ、簡易ライターとガソリンひと瓶を取り出した。
土砂降りの中、業業と燃え盛る炎を瞳に映し、私は立ち尽くしていた。炎は汚れた記憶を焼き尽くし、心の雨が止んでゆく。部屋の中では炎といっしょに、影がめらめらと揺れている。ぴかっ。不意に空が切り裂かれ、轟音とともに雨勢が増した。滝のように落ちる雨が炎を鎮めてゆく。
やめて! 私の炎に手を出さないで! 炎が消えたら私は牢獄に戻されてしまう!
ポケットのライターを握りしめ、私は炎に駆け寄ろうとする。誰かが足を引っかけ、顔から水たまりに突っ伏す。泥水の中で視線を上げると、叔父が炎の中から救い出されていた。雨勢はさらに増し、炎はどんどん萎んでいった。
私は雨に殺されて。
私は雨が嫌いになった。
〈了〉