さっぱーん。
白橙色の眩しい光に包まれて、彼女は大海原へ飛び出した。真夏の朝は、すでにスイッチMAXくらいの日差しを僕らにそそぐ。
そのプール は縦25m横11m。競技用としてはやや小ぶりだれども、彼女にとっては太平洋にも匹敵するスケール。まがりなりにもオリンピックを目指しているのだから、戦いの場は海の向こうでもあり、その感覚はあながち間違っていないのかもしれない。
彼女のあだ名は「フリッパー」。それはペンギンの翼のこと。彼女の泳ぎはまるで水中のペンギンのようなので、その名で呼ばれている。
県立高校のプール。僕は、フェンスの外側から彼女の泳ぎを眺めている。しなやかに水を切り裂きながら、クロールでぐぐんと進んでゆく。力強くは見えない。むしろ、水しぶきは控えめで、その両手は静かに水をかいてゆく。青く透明な水たちはあわてふためき、彼女の妨げにならないようにと逃げまどう。邪魔者がいなくなってできた水面の道を、なにかあったのか?と言わんばかりに滑らかに泳ぐ彼女。彼女を無事送り出した水たちは、ほっとしたようにもとのところへ戻ってゆく。そのさまは、まるで水たちを従えているよう。さながら水の女王様だ。
25m泳ぎ切りくるんとターン。きらめくクリスタルの水滴をまとった足が、水面からにょきっと飛び出す。とぷんと音を立てて足が見えなくなると、プールに一瞬の静寂が訪れる。彼女の頭が水の中から現れると、また水たちが騒ぎ出し彼女を前へ前へと運んでゆく。
カナヅチの僕には、こういう泳ぎ、というか動きを人ができるということが信じられない。これは、このあいだテレビの特番で観たペンギンの泳ぎだ。フリッパーだ。リアルにそう思う。地上を歩くように、走るように、大げさに言えばただ生命を紡ぐように呼吸のように、彼女は自然に水面を切ってゆく。僕は、その自然美から目が離せないでいる。じりじりと太陽は動き、影が最も小さくなる時間に達し、彼女は水から上がった。何往復したかわからない。けど、泳いでいる間、彼女はずっとフリッパーだった。僕は南極探検隊に参加した研究者のように、彼女の動きをずっと見ていた。ときおり、首から下げた一眼レフカメラのシャッターを切りながら。
聞くところによると、彼女は卒業後、スポーツ推薦を利用して体育大学へ進学するようだ。いまはまだ、それほど高い成績を収めていないけれど、コーチのつてでスカウトの目に留まったらしい。高校時代の3年間、ずーっとペンギン観察に明け暮れていた僕に言わせれば彼女がスカウトされるのは当たり前のことだったし、成績が出なかったのはほんのちょっとした掛け違いのせいだ。金メダルを首からジャラジャラ下げていてもおかしくなかった。そういう才能があっても運のない選手っている。彼女がそう。透明な滴をあごからしたたらせる彼女に向けてシャッターを切りながら、ぼくはそう思っていた。
ゴーグルをあげて、プールサイドに体育座りをしている彼女は、コーチとなにか喋っている。真剣な表情は、アスリートの証だ。ときおり見せる笑顔は、愛想笑いだろう。あんな人間と楽しく喋れるはずがない。コーチに変なこと言われてなければいいのだが。でも、真剣な表情も笑顔も素敵だ。真夏の太陽もひれ伏するくらい魅力的だ。万が一水泳をやめたとしても、アイドルで人気者になれるだろう。その時僕は、彼女のCDをたくさん買おう。研究対象だからね。
彼女は立ち上がると、スイムキャップを脱いだ。濡れた短い髪が、光を浴びてきらきらと輝く。その美しさに、短い夏を謳歌しているセミたちが一瞬息を呑み、静寂が訪れる。直後、彼女を称えるようにさらに大きな声で合唱を始める。夏のすべてが彼女の虜だ。僕は暑さも忘れ、夢中でシャッターを切る。何度もなんども。
そろそろ彼女も休憩時間だ。肩にタオルをかけ、部室へ入っていった。今日は僕も帰ろう。遠目からとはいえ、僕の存在が練習の邪魔になってはいけない。彼女が僕に気づいたら、練習に身が入らないかもしれない。せっかくつかんだ大学進学のチャンス、僕のせいで棒に振っては身もふたもない。脚立から降りカメラをしまって、ぬるくなったお茶をぐびりとひとくち飲む。周囲を見計らって自転車にまたがり、ペダルを漕ごうとしたその時
「ちょっときみ」
誰かが声をかけてきた。振り向くと、二人組の警察官がいた。
「ここで何してるのかな?写真を撮ってたみたいだけど、何を撮っていたのかな?脚立まで用意して。ちょっと撮影した画像見せてくれる?」
「え、いや、ちょっと街の風景を撮ってただけですよ」
「ああ、そう。申し訳ないんだけど、いま撮った画像見せてもらえるかな?いや、なんにも疑ってるわけじゃないんだけどね。最近、ここら辺で怪しい人がいるって通報があってね、見回ってたのよ。ほら、僕らも仕事だからさ、問題なければすぐに返すから、ね?」
僕はとっさにペダルに乗せた足にぐんと力を入れた。めいっぱいの力が伝わった自転車は、湿気と冷や汗でじっとりとした空気を切り裂き疾走した。
はずだった。
「おい!どこへ行く!」
「逃げるな!」
警察官は僕の腕を握り、自転車の動きを止めた。こんな力で止められてしまうなんて、もっと鍛えたほうがいいな。彼女を抱きしめたとき笑われちゃうな。
そんなことを考えながら、僕は奪われたカメラの画像をチェックする警察官をぼーっと見ていた。僕の方をチラチラと見ながらにやにやしている。僕の撮ったフリッパーの何がそんなにおかしいんだろう。美しくて感動するならわかるけど。この暑さにやられちゃったのかな。警察官も大変だな。
もう一人の警察官は僕の腕を握りながら、鞄の中を物色している。
「おいお前、これは何だ?」
警察官の手には、100円ライターとペンギンの形をしたキャンドルが握られている。
「こんなもんまで持って…放火でもするつもりだったのか?いい歳して、いくつだ?40?50くらいか?こんな平日の昼間っから、仕事してるの?」
「脚立の上から撮影している時点でお前はクロなんだよ。さ、署まで来て話を聞かせてもらうよ」
今日は渡せなかったな。キャンドルって消費期限はあるのかな、今度いつ来られるかな。などとうつらうつら考えながら、僕はパトカーに乗った。蝉の声と水しぶきの音が、ドアが閉まる直前聞こえてきたような気がした。
夏はまだまだ続いてゆく。
<了>