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家族ゲーム [ 本間洋平 ]
¥473
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読みました。
桜井翔クン主演でドラマが放映されてます。
これがめちゃ面白い。
桜井演じる吉本の狂気・凶器・狂喜っぷりがいい( ・∀・)イイ!!
めずらしく、放送日の帰宅後すぐ録画を観ている。
ハマってます。

で、ご存知の通りこの話は森田芳光監督が松田優作主演で映画を撮り、当時たいそう話題になりました。僕は観ていないんですが。
家庭教師の吉本と沼田家の人々が、細長いテーブルに座り全員こちら(カメラ)に向いて食事をするシーンが有名だったと記憶してます。それ以外のことは何一つ知りません。当時、あんまり邦画を観る習慣がなかったんですよねー。

で、翔クンドラマ版はまだまだ途中ですが、どうしても気になって原作を観ようと思いました。が、映画を観る習慣がないためなかなかツタヤにも足が向かず、じゃあ通勤の行き帰りで読める原作本にしよう!と読書家の僕らしい結論に。思い立ったその足で、ブックファースト新宿店に行き購入しました。
当然、読書家としては「映画と原作本は似て非なるもの」という法則を承知しているので、ほぼ真っ白な気持ちで読み始めました。

そして、読み終えました。

…違いすぎるわ。
翔クンドラマ版はサスペンス色がとても濃く、ドキドキハラハラがいっぱいです。
対する原作は、文学色というのでしょうか。物語が比較的淡々と進んでいき、結末もなんだかふわっとした感じです。
主人公のひとり、家庭教師の吉本は教え子である茂之に暴力でもって指導します。それだけに、殴ったり蹴ったりするシーンも少なくないのですが、それでもなんだか遠くの景色を眺めているような、そんな印象で進んでいくんです。

だから、まったく違う。
翔クンドラマ版のヒントは、そこにはなかった。
まあ、残念というほどではないですが、久しぶりにフツーの小説を読んだ。そんな気分です。

ところで、僕はこの小説が何を訴えたいのか、ほとんどわかりませんでした。
なぜなら、登場人物たちが何をしたいのか、この物語の中でどうしたいのかがわからなかったのです。
これには軽い衝撃を覚えました。読書大好きっ子の僕ですから、小説を買う場合だいたい間違いはありません。ほぼ、読後は満足しています。もちろん、作者が何を言いたいのか、登場人物たちに何を表現させたかったのかは把握できます。自分勝手な結論であっても、それを語れるだけの理解はできます。

でも、この本はそうできなかった。

なぜだろう。
考えました。

ひとつは、自分が老いたこと。行間や物語の裏に隠れているナニカを感じ取る能力が衰えたのかなと。とても寂しいですが、そういうこともあるかもしれないです。

もうひとつは、文学(小説)というものが変わってしまったということ。
簡単に言うと、今の文学(小説)は背景を緻密に書き込むことでリアリティを増し、読者を引き付ける手法が多いと思います。
30年前の文学(小説)はそうじゃない。あえて曖昧な展開にして、読者に考えさせる手法が流行りだったんじゃないかな。
そんなふうに思いました。
言い方を変えれば、今の時代、どんなものでも与える側が受ける側に過剰なほどサービスしなければならないということ。八百屋のメロンも半分に切ってなければ売れないし、魚は骨があれば食べてもらえない。早い、安い、簡単じゃないと手にとってももらえない。そんなサービス過剰が当たり前の時代。
小説も、読んでもらうためにはわかりやすくなければならない。読者に考えさせちゃいけないんです。

どうなんでしょうかねぇ…

そんな妄想してたら、もうこんな時間!
そろそろ退勤しましょう。
みなさん、おやすみなさい。