前の記事の続きです。


「与える」について、
みんなでいろいろ話しているときに、

「自分としては、
そんな「与えている」つもりはないけど、
見直してみると家族にやってることあるなあ。」

とか、

「ついつい家族に与え過ぎてしまう」


とか、


「これだけ与えているんやから、
もっと与えて欲しい。」


という言葉がありました。


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聞いているうちに、何て言うか、


「与える」って、どうしたって
一人の世界だけでは成立しない


と感じてきました。


わざわざ与えているつもりはなくても、
結果、与えていることはあるし、


昔の私のように、
欲しくないものを与えられても、
要らなくて、全く利用しなかったり、
心の負担というマイナスばかり増えて、
「奪われた」気分になることもある。


だけど、与えたかった人は、
ちゃんと受け取ってもらって
生かしてもらって、
相手のためになる、という結果を意図していた
はずです。


そうなると、最終行程は
相手の中で完了するかどうか、
にかかっている、と思ったのです。


与えて欲しい人だって、
要らんものが欲しいのではなく、
欲しいものが欲しいはず。


くれ〜って叫んでいても、
目的は、自分の中で満たされる結果であって、
それが絶対条件です。


で、あれば、与えるってのは、


与える側、与えられる側の両方の行為?感覚?
が要素。


だからこそ、


与え続けているつもりでも、
相手からしたらうざいだけ、とか
奪われた気分になったり、になり得るし、


太陽のように無意識に恩恵を放射していて、
十分に与えてくれている本人さんが
与えているつもりがない、となったりする。
そういう拝みたくなる相手っていますよね?



こうしてみると、



与える、が一方の行為だけで決定つけられる
って言い切れるのは、
神々の世界の領域だけなんちゃうかな?
とすら思ったりもします。
 私の施すものは、絶対にあなたにとって必要であるって感じ。


まあ、
人は自分の視点からしか世界を見れないので
しょうがないんですけど、


だったら、
「与えたい」→「受け取られて生かされたい」
なら、
事前に聞けばいいよね。
確認すればいいよね。


そうしないうちは、
与えてみて受け取られなくても、
トライ&エラーに過ぎないよね。
凹む必要もないかと。


あ、外れた〜
ざんね〜ん、には違いないですが。


もし、それでも確認せずに一方的に与えてみたい
ってのを強く感じるのなら、
別のことに焦点がいってるのかもなあ、
と思ったりもします。


ドキドキワクワ感とか、
当てられるかどうかにスリルがあるとか、
例え外れる可能性があっても、
自分の実力、推測力を試したいとか、
当たった時に相手にその自分の様を見せたいとか、、
なんか、別の楽しみが色濃い、
そんな風に私は感じました。


どうでしょうね〜。